は厭な、黒い石垣が見えてゐて、日の当る事がない。少年の思ひ出したのは自分の為事《しごと》をする机である。その上にはラテン文の筆記帖が一ぱい載せてある。丁度広げてある一冊の中にはPLATON,SYMPOSION《プラトオン、ジンポジオン》と書いてある。二人の目は意味もなく前の方を見てゐる。その視線は丁度ベンチの木理《もくめ》の上を這つてゐる一疋の蠅の跡を追つてゐるのである。
 二人は目を見合せた。
 アンナは溜息を衝いた。
 フリツツはそつと保護するやうに、臂を娘の背に廻して抱いて云つた。「逃げられると好いのだがね。」
 アンナは少年の顔を見た。そして少年の目の中に赫いてゐるあこがれに気が付いた。
 娘が伏目になつて顔を赤くしてゐると、少年が囁いた。
 「一体内の奴は皆気に食はないのですよ。どこまでも気に食はないのですよ。僕があなたの所から帰る度に、皆がどんな顔をして僕を見《みる》と思ひます。どいつもこいつも僕を疑つて、僕の困るのを嬉しがつてゐるのです。僕だつてもう子供ではありません。けふでもあしたでも、少し収入があるやうになりさへすれば、あなたと一しよにどこか遠い所へ逃げて行きませうね。意地ですから。」
 「あなた本当にわたくしを愛して入らつしやつて。」かう云つて娘は返事を待つてゐる。
 「なんともかとも言ひやうのない程愛してゐます。」かう云つて少年は、何か言ひさうにしてゐる娘の唇にキスをした。
 「そのあなたがわたくしを連れて逃げて下さると仰《おつし》やるのは、いつ頃でせうか」と、娘はたゆたひながら尋ねた。
 少年は黙つてゐる。そして無意識に仰向いて太い石の柱の角を辿つて、その上の方に掛つてゐる古い受難図を見た。その図には「父よ、彼等に免し給へ」云々と書いてある。
 それから少年は心配気に娘に尋ねた。「あなたのお内ではもう何か気取《けど》つてゐるのですか。」
 娘が黙つてゐるので、少年は「どうです」と重ねて尋ねた。
 娘は黙つて徐《しづ》かに頷《うなづ》いた。
 「さうですか。大方そんな事だらうと思つた。お饒舌《しやべ》り共奴が。僕はどうにかして。」かう憤然として言ひ掛けて、少年は両手で頭を押へた。
 娘は少年の肩に身を寄せ掛けて、あつさりとした調子で云つた。「あなたそんなに心配なさらなくても好くつてよ。」
 こんな風にもたれ合つて、二人は暫くぢつとしてゐた。
 
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