お悪いのですか。やあ、ロシアの侯爵閣下ではございませんか。」
おれは身を旋《めぐ》らしてその男を見た。おれの前に立っているのは、肥満した、赤い顔の独逸《ドイツ》人である。こないだ電車から飛び下りておれのわざと忘れて置いた包みを持って来てくれて、自分の名刺をくれた男である。
おれはそいつのふくらんだ腹を見て、ポッケットに入れていたナイフを出してそのナイフに付いていた十二本の刃を十二本ともそいつの腹へずぶりと刺した。腹の持主はぐっとも言わない。日本人のやる腹切りのようなわけだ。そしてぐいと引き廻して、腹の中へ包みを入れた。包みの中には例の襟が這入っているのである。三十九号の立襟である。一ダズン七ルウブルの中の二つである。それから腹の創口をピンで留めて、ハンケチで手を拭いて、その場を立ち退いた。誰もおれを見たものはない。おれは口笛を吹いて歩き出した。
その晩はよく寝た。子供のように愉快な夢を見て寝た。翌朝目を覚まして、鼻歌を歌いながら、起きて、鼻歌を歌いながら、顔を洗って、朝食を食った。なんだか年を逆さに取ったような心持がしている。おれは「巴里《パリイ》へ行く汽車は何時に出るか」と問う
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