興津弥五右衛門の遺書
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)某《それがし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十一(十七)年|駿河国《するがのくに》

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(例)※[#「鈞のつくり」、第3水準1−14−75]
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 某《それがし》儀明日年来の宿望《しゅくもう》相達し候《そろ》て、妙解院殿《みょうげいんでん》(松向寺殿)御墓前において首尾《しゅび》よく切腹いたし候《そろ》事《こと》と相成り候。しかれば子孫のため事の顛末《てんまつ》書き残しおきたく、京都なる弟又次郎宅において筆を取り候。
 某《それがし》祖父《そふ》は興津右兵衛景通《おきつうひょうえかげみち》と申《もうし》候《そろ》。永正《えいしょう》十一(十七)年|駿河国《するがのくに》興津《おきつ》に生れ、今川治部大輔《いまがわじぶたいふ》殿に仕え、同国|清見《きよみ》が関《せき》に住居いたし候。永禄《えいろく》三年五月二十日今川殿|陣亡《じんぼう》遊ばされ候《そろ》時、景通《かげみち》も御供《おとも》いたし候。年齢四十一歳に候。法名《ほうみょう》は千山宗及居士《せんざんそうきゅうこじ》と申候。
 父|才八《さいはち》は永禄元年出生|候《そろ》て、三歳にして怙《ちち》を失い、母の手に養育いたされ候て人と成り候。壮年に及びて弥五右衛門景一《やごえもんかげかず》と名告《なの》り、母の族なる播磨国《はりまのくに》の人|佐野官十郎《さのかんじゅうろう》方に寄居いたしおり候。さてその縁故をもって赤松左兵衛督《あかまつさひょうえのかみ》殿に仕え、天正《てんしょう》九年千石を給わり候。十三年四月赤松殿|阿波国《あわのくに》を併《あわ》せ領せられ候に及びて、景一《かげかず》は三百石を加増せられ、阿波郡代《あわぐんだい》となり、同国|渭津《いのつ》に住居いたし、慶長《けいちょう》の初まで勤続いたし候《そろ》。慶長五年七月赤松殿|石田三成《いしだかずしげ》に荷担《かたん》いたされ、丹波国《たんばのくに》なる小野木縫殿介《おのぎぬいのすけ》とともに丹後国《たんごのくに》田辺城《たなべのしろ》を攻められ候。当時田辺城には松向寺《しょうこうじ》殿|三斎忠興公《さんさいただおきこう》御立籠《おんたてこも》り遊ばされおり候《そろ》ところ、神君|上杉景勝《うえすぎかげかつ》を討たせ給うにより、三斎公も随従遊ばされ、跡《あと》には泰勝院殿幽斎藤孝《たいしょういんでんゆうさいふじたか》公御留守遊ばされ候。景一は京都赤松殿|邸《やしき》にありし時、烏丸光広《からすまるみつひろ》卿と相識《そうしき》に相成りおり候《そろ》。これは光広卿が幽斎公和歌の御弟子にて、嫡子《ちゃくし》光賢《みつかた》卿に松向寺殿の御息女|万姫君《まんひめぎみ》を妻《めあわ》せ居られ候《そろ》故《ゆえ》に候。さて景一光広卿を介《かい》して御当家御父子とも御心安く相成りおり候。田辺攻《たなべぜめ》の時、関東に御出《おんいで》遊ばされ候三斎公は、景一が外戚《がいせき》の従弟たる森三右衛門を使に田辺へ差立てられ候。森は田辺に着《ちゃく》いたし、景一に面会して御旨《おんむね》を伝え、景一はまた赤松家の物頭《ものがしら》井門亀右衛門《いかどかめえもん》と謀《はか》り、田辺城の妙庵丸櫓《みょうあんまるやぐら》へ矢文《やぶみ》を射掛け候。翌朝景一は森を斥候の中に交ぜて陣所を出だし遣《や》り候。森は首尾よく城内に入り、幽斎公の御親書を得て、翌晩関東へ出立いたし候。この歳《とし》赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国《ぶぜんのくに》へ参り、慶長六年御当家に召抱《めしかか》えられ候《そろ》。元和《げんな》五年御当代|光尚《みつひさ》公御誕生遊ばされ、御幼名|六丸君《ろくまるぎみ》と申候。景一は六丸君|御附《おつき》と相成り候。元和《げんな》七年三斎公御|致仕《ちし》遊ばされ候時、景一も剃髪《ていはつ》いたし、宗也《そうや》と名告《なの》り候。寛永《かんえい》九年十二月九日御先代|妙解院殿忠利公《みょうげいんでんただとしこう》肥後《ひご》へ御入国遊ばされ候時、景一も御供《おんとも》いたし候。十八年三月十七日に妙解院殿卒去遊ばされ、次いで九月二日景一も病死いたし候。享年《きょうねん》八十四歳に候。
 兄九郎兵衛|一友《かずとも》は景一が嫡子にして、父につきて豊前《ぶぜん》へ参り、慶長十七年三斎公に召しいだされ、御次勤《おんつぎづとめ》仰《おおせ》つけられ、後病気により外様勤《とざまづとめ》と相成り候。妙解院殿の御代《おんだい》に至り、寛永十四年冬|島原攻《しまばらぜめ》の御供いたし、翌十五年二月二十七日|兼田弥一右衛門《かねたやいちえもん》とともに、御当家|攻口《せめくち》の一番乗と名告り、海に臨める城壁の上にて陣亡いたし候。法名を義心英立居士《ぎしんえいりゅうこじ》と申《もうし》候《そろ》。
 某《それがし》は文禄《ぶんろく》四(三)年景一が二男に生れ、幼名才助と申候。七歳の時父につきて豊前国小倉へ参り、慶長十七年十九歳にて三斎公に召しいだされ候。元和七年三斎公致仕遊ばされ候時、父も剃髪いたし候《そうら》えば、某二十八歳にて弥五右衛門景吉《やごえもんかげよし》と名告り、三斎公の御供いたし候て、豊前国興津に参り候。
 寛永元年五月|安南船《あんなんせん》長崎に到着候時、三斎公は御薙髪《ごていはつ》遊ばされ候てより三年目なりしが、御茶事《おんちゃじ》に御用《おんもち》いなされ候珍らしき品買い求め候様|仰《おおせ》含められ、相役《あいやく》横田清兵衛と両人にて、長崎へ出向き候。幸なる事には異なる伽羅《きゃら》の大木渡来いたしおり候。然《しか》るところその伽羅に本木《もとき》と末木《うらき》との二つありて、はるばる仙台より差下《さしくだ》され候|伊達権中納言《だてごんちゅうなごん》殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望を掛け互にせり合い、次第に値段をつけ上《あ》げ候。
 その時横田|申《もうし》候《そろ》は、たとい主命なりとも、香木《こうぼく》は無用の翫物《がんぶつ》に有之《これあり》、過分の大金を擲《なげう》ち候《そろ》事《こと》は不可然《しかるべからず》、所詮《しょせん》本木を伊達家に譲り、末木を買求めたき由《よし》申候。某《それがし》申候は、某は左様には存じ申さず、主君の申つけられ候は、珍らしき品を買い求め参れとの事なるに、このたび渡来|候《そろ》品の中にて、第一の珍物はかの伽羅に有之、その木に本末あれば、本木の方が尤物《ゆうぶつ》中の尤物たること勿論《もちろん》なり、それを手に入れてこそ主命を果すに当るべけれ、伊達家《だてけ》の伊達を増長|致《いた》させ、本木を譲り候《そろ》ては、細川家の流《ながれ》を涜《けが》す事と相成り申すべくと申|候《そろ》。横田|嘲笑《あざわら》いて、それは力瘤《ちからこぶ》の入れどころが相違せり、一国一城を取るか遣《や》るかと申す場合ならば、飽《あ》くまで伊達家に楯《たて》をつくがよろしからん、高が四畳半の炉《ろ》にくべらるる木の切れならずや、それに大金を棄《す》てんこと存じも寄らず、主君御自身にてせり合われ候《そうら》わば、臣下として諫《いさ》め止《とど》め申すべき儀《ぎ》なり、たとい主君がしいて本木を手に入れたく思召《おぼしめ》されんとも、それを遂げさせ申す事、阿諛便佞《あゆべんねい》の所為《しょい》なるべしと申|候《そろ》。当時三十一歳の某《それがし》、この詞《ことば》を聞きて立腹致し候えども、なお忍んで申候は、それはいかにも賢人らしき申条《もうしじょう》なり、さりながら某はただ主命と申《もうす》物《もの》が大切なるにて、主君あの城を落せと仰《おお》せられ候わば、鉄壁なりとも乗り取り申すべく、あの首を取れと仰せられ候わば、鬼神なりとも討ち果たし申すべくと同じく、珍らしき品を求め参れと仰せられ候えば、この上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖《もと》り候事は格別、その事柄に立入り候批判がましき儀は無用なりと申候。横田いよいよ嘲笑《あざわら》いて、お手前とてもその通り道に悖《もと》りたる事はせぬと申さるるにあらずや、これが武具などならば、大金に代《か》うとも惜しからじ、香木に不相応なる価《あたい》をいださんとせらるるは若輩《じゃくはい》の心得ちがいなりと申候。某申候は、武具と香木との相違は某若輩ながら心得居る、泰勝院殿《たいしょういんでん》の御代《おんだい》に、蒲生《がもう》殿申され候《そろ》は、細川家には結構なる御道具あまた有之《これある》由《よし》なれば拝見に罷出《まかりい》ずべしとの事なり、さて約束せられし当日に相成り、蒲生殿参られ候《そろ》に、泰勝院殿は甲冑《かっちゅう》刀剣|弓《ゆみ》鎗《やり》の類を陳《つら》ねて御見せなされ、蒲生殿意外に思《おぼ》されながら、一応御覧あり、さて実は茶器拝見致したく参上したる次第なりと申され、泰勝院殿御笑いなされ、先きには道具と仰《おお》せられ候故、武家の表道具を御覧に入れたり、茶器ならば、それも少々持合せ候とて、はじめて御取《おんと》り出《いだ》しなされし由、御当家におかせられては、代々武道の御心掛深くおわしまし、かたがた歌道茶事までも堪能《たんのう》に渡らせらるるが、天下に比類なき所ならずや、茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀《さいし》も総《すべ》て虚礼なるべし、我等《われら》この度《たび》仰を受けたるは茶事に御用に立つべき珍らしき品を求むる外《ほか》他事なし、これが主命なれば、身命に懸《か》けても果さでは相成らず、貴殿が香木に大金を出す事不相応なりと思され候《そろ》は、その道の御心得なき故《ゆえ》、一徹に左様思わるるならんと申候。横田聞きも果てず、いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者《ぶへんもの》なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差《わきざし》を抜きて投げつけ候。某は身をかわして避《よ》け、刀は違棚《ちがいだな》の下なる刀掛に掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合せ、ただ一打に横田を討ち果たし候。
 かくて某は即時に伽羅《きゃら》の本木を買い取り、仲津《なかつ》へ持ち帰り候。伊達家の役人は是非《ぜひ》なく末木を買い取り、仙台へ持ち帰り候。某は香木を三斎公に参らせ、さて御願い申候は、主命大切と心得候ためとは申ながら、御役《おんやく》に立つべき侍《さむらい》一人討ち果たし候段、恐れ入り候えば、切腹|仰附《おおせつ》けられたくと申候。三斎公|聞召《きこしめ》され、某に仰せられ候はその方が申条一々もっとも至極《しごく》せり、たとい香木は貴《とうと》からずとも、この方《ほう》が求め参れと申しつけたる珍品《ちんぴん》に相違なければ大切と心得候事当然なり、総て功利の念を以《もっ》て物を視《み》候《そうら》わば、世の中に尊《とうと》き物は無くなるべし、ましてやその方が持ち帰り候伽羅は早速|焚《た》き試み候に、希代《きたい》の名木なれば「聞く度に珍らしければ郭公《ほととぎす》いつも初音《はつね》の心地《ここち》こそすれ」と申す古歌に本《もと》づき、銘を初音とつけたり、かほどの品を求め帰り候事|天晴《あっぱれ》なり、ただし討《う》たれ候《そろ》横田清兵衛が子孫|遺恨《いこん》を含《ふく》みいては相成らずと仰せられ候。かくて直ちに清兵衛が嫡子を召され、御前において盃《さかずき》を申付けられ、某は彼者《かのもの》と互に意趣を存ずまじき旨《むね》誓言《せいごん》いたし候。しかるに横田家の者どもとかく異志を存する由相聞え、ついに筑前国《ちくぜんのくに》へ罷越《まかりこ》し候《そろ》。某へは三斎公御名|忠興《ただおき》の興《おき》の字を賜《たま》わり、沖津を興津と相改め候《そろ》様《よう》御沙汰《ごさた》有之候。
 これより二年目、寛
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