永三年九月|六日《むいか》主上《しゅじょう》二条の御城《おんしろ》へ行幸遊ばされ妙解院殿へかの名香を御所望|有之《これあり》すなわちこれを献《けん》ぜらるる、主上|叡感《えいかん》有りて「たぐひありと誰《たれ》かはいはむ末《すゑ》※[#「鈞のつくり」、第3水準1−14−75]《にほ》ふ秋より後のしら菊の花」と申す古歌の心にて、白菊と名附《なづ》けさせ給《たもう》由《よし》承り候。某が買い求め候香木、畏《かしこ》くも至尊の御賞美を被《こうむ》り、御当家の誉《ほまれ》と相成り候事、存じ寄らざる儀《ぎ》と存じ、落涙候事に候。
 その後某は御先代妙解院殿よりも出格の御引立を蒙《こうむ》り、寛永九年|御国替《おんくにがえ》の砌《みぎり》には、三斎公の御居城|八代《やつしろ》に相詰《あいつ》め候事と相成り、あまつさえ殿御上京の御供にさえ召具《めしぐ》せられ候《そろ》。しかるところ寛永一四年島原征伐の事|有之《これあり》候。某をば妙解院殿御弟君|中務少輔殿立孝公《なかつかさしょうゆうどのたつたかこう》の御旗本《おんはたもと》に加えられ御幟《おんのぼり》を御預けなされ候。十五年二月廿二日御当家|御攻口《おんせめくち》にて、御幟を一番に入れ候時、銃丸左の股《もも》に中《あた》り、ようよう引き取り候。その時某四十五歳に候。手創《てきず》平癒《へいゆ》候て後、某は十六年に江戸詰《えどづめ》仰つけられ候《そろ》。
 寛永十八年妙解院殿存じ寄らざる御病気にて、御父上に先立《さきだち》、御卒去遊ばされ、当代|肥後守殿光尚《ひごのかみどのみつひさ》公の御代《みよ》と相成り候。同年九月二日には父弥五右衛門景一死去いたし候。次いで正保《しょうほう》二年三斎公も御卒去遊ばされ候。これより先《さ》き寛永十三年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされ候仙台中納言殿さえ、少林城《わかばやしじょう》において御薨去《ごこうきょ》なされ候《そろ》。かの末木の香は「世の中の憂きを身に積む柴舟《しばふね》やたかぬ先よりこがれ行《ゆく》らん」と申す歌の心にて、柴舟と銘し、御珍蔵なされ候由に候。
 某《それがし》つらつら先考御当家に奉仕《つかえたてまつり》候《そろ》てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引立を蒙《こうむ》りしは言うも更《さら》なり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助下され、この再造《さいぞう》の大恩ある主君御卒去遊ばされ候に、某いかでか存命いたさるべきと決心いたし候。
 先年妙解院殿御卒去の砌《みぎり》には、十九人の者ども殉死《じゅんし》いたし、また一昨年松向寺殿御卒去の砌にも、簑田平七正元《みのたへいしちまさもと》、小野伝兵衛友次《おのでんべえともつぐ》、久野与右衛門宗直《くのよえもんむねなお》、宝泉院勝延行者《ほうせんいんしょうえんぎょうじゃ》の四人直ちに殉死いたし候。簑田は曾祖父《そうそふ》和泉《いずみ》と申す者|相良遠江守《さがらとおとうみのかみ》殿の家老にて、主とともに陣亡し、祖父|若狭《わかさ》、父牛之助|流浪《るろう》せしに、平七は三斎公に五百石にて召し出《いだ》されしものに候。平七は二十三歳にて切腹し、小姓《こしょう》磯部長五郎|介錯《かいしゃく》いたし候。小野は丹後国にて祖父|今安太郎左衛門《いまやすたろざえもん》の代《だい》に召し出されしものなるが、父田中|甚左衛門《じんざえもん》御旨《おんむね》に忤《さか》い、江戸御邸より逐電《ちくてん》したる時、御近習《ごきんじゅ》を勤めいたる伝兵衛に、父を尋ね出して参れ、もし尋ね出さずして帰り候わば、父の代りに処刑いたすべしと仰《おお》せられ、伝兵衛諸国を遍歴せしに廻り合わざる趣にて罷《まか》り帰り候。三斎公その時死罪を顧みずして帰参候は殊勝なりと仰せられ候て、助命遊ばされ候。伝兵衛はこの恩義を思|候《そろ》て、切腹いたし候。介錯《かいしゃく》は磯田《いそだ》十郎に候。久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺|御籠城《ごろうじょう》の時功ありて、新知《しんち》百五十石|賜《たま》わり候者に候。矢野又三郎介錯いたし候。宝泉院は陣貝吹《じんがいふき》の山伏《やまぶし》にて、筒井順慶《つついじゅんけい》の弟|石井備後守吉村《いしいびんごのかみよしむら》が子に候《そろ》。介錯は入魂《じっこん》の山伏の由に候。
 某《それがし》はこれ等《ら》の事を見聞《みきき》候《そろ》につけ、いかにも羨《うらや》ましく技癢《ぎよう》に堪《た》えず候《そうら》えども、江戸詰御留守居の御用残りおり、他人には始末相成りがたく、空《むな》しく月日の立つに任せ候。然《しか》るところ松向寺殿|御遺骸《ごいがい》は八代なる泰勝院にて荼※[#「田+比」、第3水準1−86−44]《だび》せられしに、御遺言《ごゆいごん》により、去年正月十一日泰勝院専誉|御遺骨《ごゆいこつ》を京都へ護送いたし候。御供には長岡河内景則《ながおかかわちかげのり》、加来作左衛門家次《かくさくざえもんいえつぐ》、山田三右衛門、佐方源左衛門秀信《さかたげんざえもんひでのぶ》、吉田兼庵《よしだけんあん》相立ち候。二十四日には一同京都に着し、紫野大徳寺《むらさきのだいとくじ》中|高桐院《こうとういん》に御納骨いたし候。御生前において同寺|清巌和尚《せいがんおしょう》に御約束|有之《これあり》候趣に候。
 さて今年御用相片づき候えば、御当代に宿望言上いたし候《そろ》に、已《や》みがたき某が志を御聞届け遊ばされ候《そろ》[#ルビの「そろ」は底本では「それ」]。十月二十九日朝|御暇乞《おんいとまごい》に参り、御振舞《おんふるまい》に預り、御手《おんて》ずから御茶を下され、引出物《ひきでもの》として九曜の紋《もん》赤裏の小袖|二襲《ふたかさね》を賜《たま》わり候。退出候後、林外記《はやしげき》殿、藤崎作左衛門殿を御使として遣《つかわ》され後々の事心配|致《いた》すまじき旨《むね》仰《おお》せられ、御歌を下され、又京都へ参らば、万事古橋小左衛門と相談して執り行えと懇《ねんごろ》に仰せられ候。その外|堀田加賀守《ほったかがのかみ》殿、稲葉能登守《いなばのとのかみ》殿も御歌《おんうた》を下され候。十一月二日江戸出立の時は、御当代の御使として田中左兵衛殿品川まで見送られ候。
 当地に着《ちゃく》候《そろ》てよりは、当家の主人たる弟又次郎の世話に相成り候。ついては某相果て候後、短刀を記念《かたみ》に遣《つかわ》し候。
 餞別《せんべつ》として詩歌《しいか》を贈られ候《そろ》人々は烏丸大納言資慶《からすまるだいなごんすけよし》卿、裏松宰相資清《うらまつさいしょうすけきよ》卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺|並《なら》びに南都興福寺の長老達に候。
 明日切腹候場所は、古橋殿|取計《とりはからい》にて、船岡山《ふなおかやま》の下に仮屋を建て、大徳寺門前より仮屋まで十八町の間、藁筵《わらむしろ》三千八百枚余を敷き詰め、仮屋の内には畳一枚を敷き、上に白布を覆《おお》い有之《これあり》候《そろ》由《よし》に候。いかにも晴がましく候て、心苦しく候えども、これまた主命なれば是非なく候《そろ》。立会《たちあい》は御当代の御名代《ごみょうだい》谷内蔵之允《たにくらのすけ》殿、御家老長岡与八郎殿、同半左衛門殿にて、大徳寺清巌実堂和尚も臨場《りんじょう》せられ候。倅《せがれ》才右衛門も参るべく候。介錯はかねて乃美市郎兵衛勝嘉《のみいちろべえかつよし》殿に頼みおき候。
 某|法名《ほうみょう》は孤峰不白《こほうふはく》と自選いたし候《そろ》。身|不肖《ふしょう》ながら見苦しき最期も致すまじく存じおり候。
 この遺書は倅才右衛門|宛《あて》にいたしおき候えば、子々孫々|相伝《あいつた》え、某が志を継ぎ、御当家に奉対《たいしたてまつり》、忠誠を擢《ぬきん》ずべく候。
  正保《しょうほう》四年|丁亥《ていがい》十二月|朔日《さくじつ》
[#地から2字上げ]興津弥五右衛門景吉|華押《かおう》
    興津才右衛門殿

 正保四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院《こうとういん》の墓に詣《もう》でて、船岡山《ふなおかやま》の麓《ふもと》に建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後《うしろ》に立っている乃美《のみ》市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢《しろむく》の上から腹を三文字に切った。乃美は項《うなじ》を一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛《のどぶえ》を刺されい」と云った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。
 仮屋の周囲には京都の老若男女が堵《と》の如《ごと》くに集って見物した。落首の中に「比類なき名をば雲井に揚げおきつやごゑを掛けて追腹《おひばら》を切る」と云うのがあった。

 興津家の系図は大略左の通りである。

[#興津家の系図(fig45209_01.png)入る]

 弥五右衛門|景吉《かげよし》の嫡子《ちゃくし》才右衛門|一貞《かずさだ》は知行二百石を給《たま》わって、鉄砲三十|挺頭《ちょうがしら》まで勤めたが、宝永元年に病死した。右兵衛景通《うひょうえかげみち》から四代目である。五世弥五右衛門は鉄砲十挺頭まで勤めて、元文《げんぶん》四年に病死した。六世弥忠太は番方《ばんかた》を勤め、宝暦《ほうれき》六年に致仕《ちし》した。七世九郎次は番方を勤め、安永五年に致仕した。八世九郎兵衛は養子で、番方を勤め、文化元年に病死した。九世|栄喜《えいき》は養子で、番方を勤め、文政九年に病死した。十世弥忠太は栄喜の嫡子で、後才右衛門と改名し、番方を勤め、万延《まんえん》元年に病死した。十一世弥五右衛門は才右衛門の二男で、後|宗也《そうや》と改名し、犬追物《いぬおうもの》が上手《じょうず》であった。明治三年に番士にせられていた。
 弥五右衛門景吉の父|景一《かげかず》[#ルビの「かげかず」は底本では「かげかす」]には男子が六人あって、長男が九郎兵衛|一友《かずとも》で、二男が景吉であった。三男半三郎は後作太夫|景行《かげゆき》と名告《なの》っていたが、慶安五年に病死した。その子弥五太夫が寛文十一年に病死して家が絶えた。景一の四男忠太は後四郎右衛門景時と名告った。元和元年大阪夏の陣に、三斎公に従って武功を立てたが、行賞の時思う旨があると云って辞退したので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊勢国《いせのくに》亀山《かめやま》に往《い》って、本多下総守俊次《ほんだしもうさのかみとしつぐ》に仕えた。次いで坂下《さかのした》、関、亀山三箇所の奉行《ぶぎょう》にせられた。寛政(永)十四年の冬、島原の乱に西国の諸侯が江戸から急いで帰る時、細川|越中守綱利《えっちゅうのかみつなとし》と黒田|右衛門佐光之《うえもんのすけみつゆき》とが同日に江戸を立った。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之は一日だけ先へ乗り越した。この時寺本四郎右衛門[#「四郎右衛門」は底本では「四郎兵衛」]が京都にいる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三箇所の人馬を買い締めて、山の中に隠して置いた。さて綱利の到着するのを待ち受けて、その人馬を出したので、綱利は土山水口の駅で光之を乗り越した。綱利は喜んで、後に江戸にいた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召《め》し抱《かか》えた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五|人扶持《にんふち》二十石を給わって、中小姓《ちゅうこしょう》組に加わって、元禄四年に病死した。作右衛門の子|登《のぼる》は越中守|宣紀《のぶのり》に任用せられ、役料共七百石を給わって、越中守|宗孝《むねたか》の代に用人を勤めていたが、元文三年に致仕した。登の子四郎右衛門[#「四郎右衛門」は底本では「四郎兵衛」]は物奉行《ものぶぎょう》を[#「物奉行《ものぶぎょう》を」は底本では「物奉作《ものぶぎょう》を」]勤めているうちに、寛延三年に旨に忤《さか》って知行宅地を没収せられた。その子|宇平太《う
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