七日|兼田弥一右衛門《かねたやいちえもん》とともに、御当家|攻口《せめくち》の一番乗と名告り、海に臨める城壁の上にて陣亡いたし候。法名を義心英立居士《ぎしんえいりゅうこじ》と申《もうし》候《そろ》。
 某《それがし》は文禄《ぶんろく》四(三)年景一が二男に生れ、幼名才助と申候。七歳の時父につきて豊前国小倉へ参り、慶長十七年十九歳にて三斎公に召しいだされ候。元和七年三斎公致仕遊ばされ候時、父も剃髪いたし候《そうら》えば、某二十八歳にて弥五右衛門景吉《やごえもんかげよし》と名告り、三斎公の御供いたし候て、豊前国興津に参り候。
 寛永元年五月|安南船《あんなんせん》長崎に到着候時、三斎公は御薙髪《ごていはつ》遊ばされ候てより三年目なりしが、御茶事《おんちゃじ》に御用《おんもち》いなされ候珍らしき品買い求め候様|仰《おおせ》含められ、相役《あいやく》横田清兵衛と両人にて、長崎へ出向き候。幸なる事には異なる伽羅《きゃら》の大木渡来いたしおり候。然《しか》るところその伽羅に本木《もとき》と末木《うらき》との二つありて、はるばる仙台より差下《さしくだ》され候|伊達権中納言《だてごんちゅうなごん》殿の
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