へいた》は始め越中守|重賢《しげかた》の給仕を勤め、後に中務大輔治年《なかつかさたいふはるとし》の近習《きんじゅ》になって、擬作高《ぎさくだか》百五十石を給わった。次いで物頭列《ものがしられつ》にせられて紀姫《つなひめ》附になった。文化二年に致仕した。宇平太の嫡子順次は軍学、射術に長じていたが、文化五年に病死した。順次の養子|熊喜《くまき》は実は山野勘左衛門の三男で、合力米《ごうりきまい》二十石を給わり、中小姓を勤め、天保八年に病死した。熊喜の嫡子衛一郎は後四郎右衛門と改名し、玉名郡代を勤め、物頭列《ものがしられつ》にせられた。明治三年に鞠獄大属《きくごくだいぞく》になって、名を登と改めた。景一の五男八助は三歳の時足を傷《きずつ》けて行歩《ぎょうほ》不自由になった。宗春《むねはる》と改名して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでいて、播磨国《はりまのくに》の佐野官十郎の孫市郎左衛門を養子にした。



底本:「カラー版日本文学全集7 森鴎外」河出書房新社
   1969(昭和44)年3月30日初版発行
初出:「中央公論」
   1912(大正元)年10月
※人名の修正箇所
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