そろ》。立会《たちあい》は御当代の御名代《ごみょうだい》谷内蔵之允《たにくらのすけ》殿、御家老長岡与八郎殿、同半左衛門殿にて、大徳寺清巌実堂和尚も臨場《りんじょう》せられ候。倅《せがれ》才右衛門も参るべく候。介錯はかねて乃美市郎兵衛勝嘉《のみいちろべえかつよし》殿に頼みおき候。
某|法名《ほうみょう》は孤峰不白《こほうふはく》と自選いたし候《そろ》。身|不肖《ふしょう》ながら見苦しき最期も致すまじく存じおり候。
この遺書は倅才右衛門|宛《あて》にいたしおき候えば、子々孫々|相伝《あいつた》え、某が志を継ぎ、御当家に奉対《たいしたてまつり》、忠誠を擢《ぬきん》ずべく候。
正保《しょうほう》四年|丁亥《ていがい》十二月|朔日《さくじつ》
[#地から2字上げ]興津弥五右衛門景吉|華押《かおう》
興津才右衛門殿
正保四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院《こうとういん》の墓に詣《もう》でて、船岡山《ふなおかやま》の麓《ふもと》に建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後《うしろ》に立っている乃美《のみ》市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢《しろむく》の上から腹を三文字に切った。乃美は項《うなじ》を一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛《のどぶえ》を刺されい」と云った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。
仮屋の周囲には京都の老若男女が堵《と》の如《ごと》くに集って見物した。落首の中に「比類なき名をば雲井に揚げおきつやごゑを掛けて追腹《おひばら》を切る」と云うのがあった。
興津家の系図は大略左の通りである。
[#興津家の系図(fig45209_01.png)入る]
弥五右衛門|景吉《かげよし》の嫡子《ちゃくし》才右衛門|一貞《かずさだ》は知行二百石を給《たま》わって、鉄砲三十|挺頭《ちょうがしら》まで勤めたが、宝永元年に病死した。右兵衛景通《うひょうえかげみち》から四代目である。五世弥五右衛門は鉄砲十挺頭まで勤めて、元文《げんぶん》四年に病死した。六世弥忠太は番方《ばんかた》を勤め、宝暦《ほうれき》六年に致仕《ちし》した。七世九郎次は番方を勤め、安永五年に致仕した。八世九郎兵衛は養子で、番方を勤め、文化元年に病死した。九世|栄喜《えいき》は養子で、番方を勤め、文政九年に
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