病死した。十世弥忠太は栄喜の嫡子で、後才右衛門と改名し、番方を勤め、万延《まんえん》元年に病死した。十一世弥五右衛門は才右衛門の二男で、後|宗也《そうや》と改名し、犬追物《いぬおうもの》が上手《じょうず》であった。明治三年に番士にせられていた。
弥五右衛門景吉の父|景一《かげかず》[#ルビの「かげかず」は底本では「かげかす」]には男子が六人あって、長男が九郎兵衛|一友《かずとも》で、二男が景吉であった。三男半三郎は後作太夫|景行《かげゆき》と名告《なの》っていたが、慶安五年に病死した。その子弥五太夫が寛文十一年に病死して家が絶えた。景一の四男忠太は後四郎右衛門景時と名告った。元和元年大阪夏の陣に、三斎公に従って武功を立てたが、行賞の時思う旨があると云って辞退したので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊勢国《いせのくに》亀山《かめやま》に往《い》って、本多下総守俊次《ほんだしもうさのかみとしつぐ》に仕えた。次いで坂下《さかのした》、関、亀山三箇所の奉行《ぶぎょう》にせられた。寛政(永)十四年の冬、島原の乱に西国の諸侯が江戸から急いで帰る時、細川|越中守綱利《えっちゅうのかみつなとし》と黒田|右衛門佐光之《うえもんのすけみつゆき》とが同日に江戸を立った。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之は一日だけ先へ乗り越した。この時寺本四郎右衛門[#「四郎右衛門」は底本では「四郎兵衛」]が京都にいる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三箇所の人馬を買い締めて、山の中に隠して置いた。さて綱利の到着するのを待ち受けて、その人馬を出したので、綱利は土山水口の駅で光之を乗り越した。綱利は喜んで、後に江戸にいた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召《め》し抱《かか》えた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五|人扶持《にんふち》二十石を給わって、中小姓《ちゅうこしょう》組に加わって、元禄四年に病死した。作右衛門の子|登《のぼる》は越中守|宣紀《のぶのり》に任用せられ、役料共七百石を給わって、越中守|宗孝《むねたか》の代に用人を勤めていたが、元文三年に致仕した。登の子四郎右衛門[#「四郎右衛門」は底本では「四郎兵衛」]は物奉行《ものぶぎょう》を[#「物奉行《ものぶぎょう》を」は底本では「物奉作《ものぶぎょう》を」]勤めているうちに、寛延三年に旨に忤《さか》って知行宅地を没収せられた。その子|宇平太《う
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