られしに、御遺言《ごゆいごん》により、去年正月十一日泰勝院専誉|御遺骨《ごゆいこつ》を京都へ護送いたし候。御供には長岡河内景則《ながおかかわちかげのり》、加来作左衛門家次《かくさくざえもんいえつぐ》、山田三右衛門、佐方源左衛門秀信《さかたげんざえもんひでのぶ》、吉田兼庵《よしだけんあん》相立ち候。二十四日には一同京都に着し、紫野大徳寺《むらさきのだいとくじ》中|高桐院《こうとういん》に御納骨いたし候。御生前において同寺|清巌和尚《せいがんおしょう》に御約束|有之《これあり》候趣に候。
 さて今年御用相片づき候えば、御当代に宿望言上いたし候《そろ》に、已《や》みがたき某が志を御聞届け遊ばされ候《そろ》[#ルビの「そろ」は底本では「それ」]。十月二十九日朝|御暇乞《おんいとまごい》に参り、御振舞《おんふるまい》に預り、御手《おんて》ずから御茶を下され、引出物《ひきでもの》として九曜の紋《もん》赤裏の小袖|二襲《ふたかさね》を賜《たま》わり候。退出候後、林外記《はやしげき》殿、藤崎作左衛門殿を御使として遣《つかわ》され後々の事心配|致《いた》すまじき旨《むね》仰《おお》せられ、御歌を下され、又京都へ参らば、万事古橋小左衛門と相談して執り行えと懇《ねんごろ》に仰せられ候。その外|堀田加賀守《ほったかがのかみ》殿、稲葉能登守《いなばのとのかみ》殿も御歌《おんうた》を下され候。十一月二日江戸出立の時は、御当代の御使として田中左兵衛殿品川まで見送られ候。
 当地に着《ちゃく》候《そろ》てよりは、当家の主人たる弟又次郎の世話に相成り候。ついては某相果て候後、短刀を記念《かたみ》に遣《つかわ》し候。
 餞別《せんべつ》として詩歌《しいか》を贈られ候《そろ》人々は烏丸大納言資慶《からすまるだいなごんすけよし》卿、裏松宰相資清《うらまつさいしょうすけきよ》卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺|並《なら》びに南都興福寺の長老達に候。
 明日切腹候場所は、古橋殿|取計《とりはからい》にて、船岡山《ふなおかやま》の下に仮屋を建て、大徳寺門前より仮屋まで十八町の間、藁筵《わらむしろ》三千八百枚余を敷き詰め、仮屋の内には畳一枚を敷き、上に白布を覆《おお》い有之《これあり》候《そろ》由《よし》に候。いかにも晴がましく候て、心苦しく候えども、これまた主命なれば是非なく候《
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