殿一命を御救助下され、この再造《さいぞう》の大恩ある主君御卒去遊ばされ候に、某いかでか存命いたさるべきと決心いたし候。
 先年妙解院殿御卒去の砌《みぎり》には、十九人の者ども殉死《じゅんし》いたし、また一昨年松向寺殿御卒去の砌にも、簑田平七正元《みのたへいしちまさもと》、小野伝兵衛友次《おのでんべえともつぐ》、久野与右衛門宗直《くのよえもんむねなお》、宝泉院勝延行者《ほうせんいんしょうえんぎょうじゃ》の四人直ちに殉死いたし候。簑田は曾祖父《そうそふ》和泉《いずみ》と申す者|相良遠江守《さがらとおとうみのかみ》殿の家老にて、主とともに陣亡し、祖父|若狭《わかさ》、父牛之助|流浪《るろう》せしに、平七は三斎公に五百石にて召し出《いだ》されしものに候。平七は二十三歳にて切腹し、小姓《こしょう》磯部長五郎|介錯《かいしゃく》いたし候。小野は丹後国にて祖父|今安太郎左衛門《いまやすたろざえもん》の代《だい》に召し出されしものなるが、父田中|甚左衛門《じんざえもん》御旨《おんむね》に忤《さか》い、江戸御邸より逐電《ちくてん》したる時、御近習《ごきんじゅ》を勤めいたる伝兵衛に、父を尋ね出して参れ、もし尋ね出さずして帰り候わば、父の代りに処刑いたすべしと仰《おお》せられ、伝兵衛諸国を遍歴せしに廻り合わざる趣にて罷《まか》り帰り候。三斎公その時死罪を顧みずして帰参候は殊勝なりと仰せられ候て、助命遊ばされ候。伝兵衛はこの恩義を思|候《そろ》て、切腹いたし候。介錯《かいしゃく》は磯田《いそだ》十郎に候。久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺|御籠城《ごろうじょう》の時功ありて、新知《しんち》百五十石|賜《たま》わり候者に候。矢野又三郎介錯いたし候。宝泉院は陣貝吹《じんがいふき》の山伏《やまぶし》にて、筒井順慶《つついじゅんけい》の弟|石井備後守吉村《いしいびんごのかみよしむら》が子に候《そろ》。介錯は入魂《じっこん》の山伏の由に候。
 某《それがし》はこれ等《ら》の事を見聞《みきき》候《そろ》につけ、いかにも羨《うらや》ましく技癢《ぎよう》に堪《た》えず候《そうら》えども、江戸詰御留守居の御用残りおり、他人には始末相成りがたく、空《むな》しく月日の立つに任せ候。然《しか》るところ松向寺殿|御遺骸《ごいがい》は八代なる泰勝院にて荼※[#「田+比」、第3水準1−86−44]《だび》せ
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