金を棄《す》てんこと存じも寄らず、主君御自身にてせり合われ候わば、臣下として諫《いさ》め止め申すべき儀《ぎ》なり、たとい主君がしいて本木を手に入れたく思召されんとも、それを遂げさせ申す事|阿諛便佞《あゆべんねい》の所為《しょい》なるべしと申候。当時|未《いま》だ三十歳に相成らざる某《それがし》、この詞《ことば》を聞きて立腹致し候えども、なお忍んで申候は、それはいかにも賢人らしき申条《もうしじょう》なり、さりながら某はただ主命と申物が大切なるにて、主君あの城を落せと仰《おお》せられ候わば、鉄壁なりとも乗取り申すべく、あの首を取れと仰せられ候わば、鬼神なりとも討果たし申すべくと同じく、珍らしき品を求め参れと仰せられ候えば、この上なき名物を求めん所存《しょぞん》なり、主命たる以上は、人倫の道に悖《もと》り候事は格別、その事柄に立入り候批判がましき儀は無用なりと申候。相役いよいよ嘲笑いて、お手前とてもその通り、道に悖りたる事はせぬと申さるるにあらずや、これが武具などならば、大金に代《か》うとも惜しからじ、香木に不相応なる価を出さんとせらるるは、若輩《じゃくはい》の心得違なりと申候。某申候は、武具と香木との相違は某《それがし》若輩ながら心得居る、泰勝院殿《たいしょういんでん》の御代に、蒲生《がもう》殿申され候《そろ》は、細川家には結構なる御道具あまた有之由なれば拝見に罷《まかり》いずべしとの事なり、さて約束せられし当日に相成り、蒲生殿参られ候に、泰勝院殿は甲冑《かっちゅう》刀剣弓鎗の類を陳《つら》ねて御見せなされ、蒲生殿意外に思《おぼ》されながら、一応御覧あり、さて実は茶器拝見致したく参上したる次第なりと申され、泰勝院殿御笑いなされ、先きには道具と仰せられ候故、武家の表道具を御覧に入れたり、茶器ならばそれも少々持合せ候とて、はじめて御取り出しなされし由、御当家におかせられては、代々武道の御心掛深くおわしまし、かたがた歌道茶事までも堪能《たんのう》に渡らせらるるが、天下に比類なき所ならずや、茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀《さいし》も総て虚礼なるべし、我等この度|仰《おおせ》を受けたるは茶事に御用に立つべき珍らしき品を求むる外《ほか》他事なし、これが主命なれば、身命に懸《か》けても果たさでは相成らず、貴殿が香木に大金を出す事|不相応《ふそうおう》なりと思され
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