たのに、今は陳がそう云う時、多く緑翹と語った。その上そう云う時の陳の詞《ことば》は極《きわめ》て温和である。玄機はそれを聞く度に胸を刺されるように感じた。
 ある日玄機は女道士仲間に招かれて、某の楼観に往った。書斎を出る時、緑翹にその観の名を教えて置いたのである。さて夕方になって帰ると、緑翹が門《かど》に出迎えて云った。「お留守に陳さんがお出《いで》なさいました。お出になった先を申しましたら、そうかと云ってお帰なさいました」と云った。
 玄機は色を変じた。これまで留守の間に陳の来たことは度々あるが、いつも陳は書斎に入って待っていた。それに今日は程近い所にいるのを知っていて、待たずに帰ったと云う。玄機は陳と緑翹との間に何等かの秘密があるらしく感じたのである。
 玄機は黙って書斎に入って、暫く坐《ざ》して沈思していた。猜疑《さいぎ》は次第に深くなり、忿恨《ふんこん》は次第に盛んになった。門に迎えた緑翹の顔に、常に無い侮蔑《ぶべつ》の色が見えたようにも思われて来る。温言を以て緑翹を賺《すか》す陳の声が歴々として耳に響くようにも思われて来る。
 そこへ緑翹が燈《ともしび》に火を点じて持って来た
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