ェ岡田さんだったらと思う。最初はそう思う度に、自分で自分の横着を責めていたが、次第に平気で岡田の事ばかり思いつつも、話の調子を合せているようになった。それから末造の自由になっていて、目を瞑《つぶ》って岡田の事を思うようになった。折々は夢の中で岡田と一しょになる。煩わしい順序も運びもなく一しょになる。そして「ああ、嬉しい」と思うとたんに、相手が岡田ではなくて末造になっている。はっと驚いて目を醒まして、それから神経が興奮して寐《ね》られぬので、じれて泣くこともある。
 いつの間にか十一月になった。小春日和が続いて、窓を開けて置いても目立たぬので、お玉は又岡田の顔を毎日のように見ることが出来た。これまで薄ら寒い雨の日などが続いて、二三日も岡田の顔の見られぬことがあると、お玉は塞《ふさ》いでいた。それでも飽くまで素直な性《たち》なので、梅に無理を言って迷惑させるような事はない。ましてや末造に不機嫌な顔を見せなんぞはしない。唯そんな時は箱火鉢の縁《ふち》に肘を衝《つ》いて、ぼんやりして黙っているので、梅が「どこかお悪いのですか」と云ったことがあるだけである。それが岡田の顔がこの頃続いて見られるので、珍らしく浮き浮きして来て、或る朝いつもよりも気軽に内を出て、池の端の父親の所へ遊びに往った。
 お玉は父親を一週間に一度ずつ位はきっと尋ねることにしているが、まだ一度も一時間以上腰を落ち着けていたことは無い。それは父親が許さぬからである。父親は往く度に優しくしてくれる。何か旨《うま》い物でもあると、それを出して茶を飲ませる。しかしそれだけの事をしてしまうと、すぐに帰れと云う。これは老人の気の短い為めばかりでは無い。奉公に出したからには、勝手に自分の所に引き留めて置いては済まぬと思うのである。お玉が二度目か三度目に父親の所に来た時、午前のうちは檀那の見えることは決して無いから、少しはゆっくりしていても好《い》いと云ったことがある。父親は承知しなかった。「なる程これまではお出《いで》がなかったかも知れない。それでもいつ何の御用事があってお出なさるかも知れぬではないか。檀那に申し上げておひまを戴いた日は別だが、お前のように買物に出て寄って、ゆっくりしていてはならない。それではどこをうろついているかと、檀那がお思なされても為方が無い」と云うのであった。
 若し父親が末造の職業を聞いて心持を悪くしはすまいかと、お玉は始終心配して、尋ねて往く度に様子を見るが、父親は全く知らずにいるらしい。それはその筈である。父親は池の端に越して来てから、暫《しばら》く立つうちに貸本を読むことを始めて、昼間はいつも眼鏡を掛けて貸本を読んでいる。それも実録物とか講談物とか云う「書き本」に限っている。この頃読んでいるのは三河後風土記《みかわごふうどき》である。これはだいぶ冊数が多いから、当分この本だけで楽めると云っている。貸本屋が「読み本」を見せて勧めると、それは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》の書いてある本だろうと云って、手に取って見ようともしない。夜は目が草臥《くたび》れると云って本を読まずに、寄せへ往く。寄せで聞くものなら、本当か※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]かなどとは云わずに、落語も聞けば義太夫も聴く。主に講釈ばかり掛かる広小路の席へは、余程気に入った人が出なくては往かぬのである。道楽は只それだけで、人と無駄話をすると云うことが無いから、友達も出来ない。そこで末造の身の上なぞを聞き出す因縁は生じて来ぬのである。
 それでも近所には、あの隠居の内へ尋ねて来る好い女はなんだろうと穿鑿《せんさく》して、とうとう高利貸の妾だそうだと突き留めたものもある。若し両隣に口のうるさい人でもいると、爺いさんがどんなに心安立《こころやすだて》をせずにいても、無理にも厭な噂《うわさ》を聞せられるのだが、為合せな事には一方の隣が博物館の属官で、法帖《ほうじょう》なんぞをいじって手習ばかりしている男、一方の隣がもう珍らしいものになっている板木師《はんぎし》で、篆刻《てんこく》なんぞには手を出さぬ男だから、どちらも爺いさんの心の平和を破るような虞《おそれ》はない。まだ並んでいる家の中で、店を開けて商売をしているのは蕎麦屋《そばや》の蓮玉庵と煎餅屋《せんべいや》と、その先きのもう広小路の角に近い処の十三屋と云う櫛屋《くしや》との外には無かった時代である。
 爺いさんは格子戸を開けて這入《はい》る人のけはい、軽げな駒下駄の音だけで、まだ優しい声のおとないを聞かぬうちに、もうお玉が来たのだと云うことを知って、読みさしの後風土記を下に置いて待っている。掛けていた目金を脱《はず》して、可哀い娘の顔を見る日は、爺いさんのためには祭日である。娘が来れば、きっと目金を脱す。目金で見た方が好く見える筈だが、どうしても目金越しでは隔てがあるようで気が済まぬのである。娘に話したい事はいつも溜《た》まっていて、その一部分を忘れて残したのに、いつも娘の帰った跡で気が附く。しかし「檀那は御機嫌好くてお出になるかい」と末造の安否を問うことだけは忘れない。
 お玉はきょう機嫌の好《い》い父親の顔を見て、阿茶《あちゃ》の局《つぼね》の話を聞せて貰い、広小路に出来た大千住《おおせんじゅ》の出店で買ったと云う、一尺四方もある軽焼の馳走になった。そして父親が「まだ帰らなくても好いかい」と度々聞くのに、「大丈夫よ」と笑いながら云って、とうとう正午近くまで遊んでいた。そしてこの頃のように末造が不意に来ることのあるのを父親に話したら、あの帰らなくても好いかと云う催促が一層|劇《はげ》しくなるだろうと、心の中《うち》で思った。自分はいつか横着になって、末造に留守の間《ま》に来られてはならぬと云うような心遣をせぬようになっているのである。

     弐拾壱《にじゅういち》

 時候が次第に寒くなって、お玉の家の流しの前に、下駄で踏む処だけ板が土に填《う》めてある、その板の上には朝霜が真っ白に置く。深い井戸の長い弔瓶縄《つるべなわ》が冷たいから、梅に気の毒だと云って、お玉は手袋を買って遣《や》ったが、それを一々|嵌《は》めたり脱いだりして、台所の用が出来るものでは無いと思った梅は、貰った手袋を大切にしまって置いて、矢張《やはり》素手で水を汲む。洗物をさせるにも、雑巾掛《ぞうきんがけ》をさせるにも、湯を涌《わ》かして使わせるのに、梅の手がそろそろ荒れて来る。お玉はそれを気にして、こんな事を言った。「なんでも手を濡らした跡をそのままにして置くのが悪いのだよ。水から手を出したら、すぐに好く拭いて乾かしてお置。用が片附いたら、忘れないでシャボンで手を洗うのだよ」こう云ってシャボンまで買って渡した。それでも梅の手が次第に荒れるのを、お玉は気の毒がっている。そしてあの位の事は自分もしたが、梅のように手の荒れたことは無かったのにと、不思議にも思うのである。
 朝目を醒まして起きずにはいられなかったお玉も、この頃は梅が、「けさは流しに氷が張っています、も少しお休になっていらっしゃいまし」なぞと云うと、つい布団にくるまっている様になった。教育家は妄想《もうぞう》を起させぬために青年に床に入《い》ってから寐附かずにいるな、目が醒めてから起きずにいるなと戒める。少壮な身を暖い衾《ふすま》の裡《うち》に置けば、毒草の花を火の中に咲かせたような写象が萌《きざ》すからである。お玉の想像もこんな時には随分|放恣《ほうし》になって来ることがある。そう云う時には目に一種の光が生じて、酒に酔ったように瞼《まぶた》から頬に掛け紅《くれない》が漲《みなぎ》るのである。
 前晩《ぜんばん》に空が晴れ渡って、星がきらめいて、暁に霜の置いた或る日の事であった。お玉はだいぶ久しく布団の中で、近頃覚えた不精《ぶしょう》をしていて、梅が疾《と》っくに雨戸を繰り開けた表の窓から、朝日のさし入るのを見て、やっと起きた。そして細帯一つでねんねこ半纏《はんてん》を羽織って、縁側に出て楊枝《ようじ》を使っていた。すると格子戸をがらりと開ける音がする。「いらっしゃいまし」と愛想好く云う梅の声がする。そのまま上がって来る足音がする。
「やあ。寐坊だなあ」こう云って箱火鉢の前に据わったのは末造である。
「おや。御免なさいましよ。大そうお早いじゃございませんか」銜《くわ》えていた楊枝を急いで出して、唾《つばき》をバケツの中に吐いてこう云ったお玉の、少しのぼせたような笑顔が、末造の目にはこれまでになく美しく見えた。一体お玉は無縁坂に越して来てから、一日一日と美しくなるばかりである。最初は娘らしい可哀さが気に入っていたのだが、この頃はそれが一種の人を魅するような態度に変じて来た。末造はこの変化を見て、お玉に情愛が分かって来たのだ、自分が分からせて遣ったのだと思って、得意になっている。しかしこれは何事をも鋭く看破する末造の目が、笑止にも愛する女の精神状態を錯《あやま》り認めているのである。お玉は最初主人大事に奉公をする女であったのが、急劇な身の上の変化のために、煩悶《はんもん》して見たり省察《せいさつ》して見たりした挙句、横着と云っても好《い》いような自覚に到達して、世間の女が多くの男に触れた後《のち》に纔《わず》かに贏《か》ち得る冷静な心と同じような心になった。この心に翻弄《ほんろう》せられるのを、末造は愉快な刺戟《しげき》として感ずるのである。それにお玉は横着になると共に、次第に少しずつじだらくになる。末造はこのじだらくに情慾を煽《あお》られて、一層お玉に引き附けられるように感ずる。この一切の変化が末造には分からない。魅せられるような感じはそこから生れるのである。
 お玉はしゃがんで金盥《かなだらい》を引き寄せながら云った。「あなた一寸《ちょっと》あちらへ向いていて下さいましな」
「なぜ」と云いつつ、末造は金天狗《きんてんぐ》に火を附けた。
「だって顔を洗わなくちゃ」
「好いじゃないか。さっさと洗え」
「だって見ていらっしゃっちゃ、洗えませんわ」
「むずかしいなあ。これで好いか」末造は烟《けぶり》を吹きつつ縁側に背中を向けた。そして心中になんと云うあどけない奴だろうと思った。
 お玉は肌も脱がずに、只|領《えり》だけくつろげて、忙がしげに顔を洗う。いつもより余程手を抜いてはいるが、化粧の秘密を藉《か》りて、庇《きず》を蔽《おお》い美を粧《よそお》うと云う弱点も無いので、別に見られていて困ることは無い。
 末造は最初背中を向けていたが、暫くするとお玉の方へ向き直った。顔を洗う間末造に背中を向けていたお玉はこれを知らずにいたが、洗ってしまって鏡台を引き寄せると、それに末造の紙巻を銜えた顔がうつった。
「あら、ひどい方ね」とお玉は云ったが、そのまま髪を撫《な》で附けている。くつろげた領の下に項《うなじ》から背へ掛けて三角形に見える白い肌、手を高く挙げているので、肘の上二三寸の所まで見えるふっくりした臂《ひじ》が、末造のためにはいつまでも厭《あ》きない見ものである。そこで自分が黙って待っていたら、お玉が無理に急ぐかも知れぬと思って、わざと気楽げにゆっくりした調子で話し出した。
「おい急ぐには及ばないよ。何も用があってこんなに早く出掛けて来たのではないのだ。実はこないだお前に聞かれて、今晩あたり来るように云って置いたが、ちょいと千葉へ往かなくてはならない事になったのだ。話が旨く運べば、あすのうちに帰って来られるのだが、どうかするとあさってになるかも知れない」
 櫛をふいていたお玉は「あら」と云って振り返った。顔に不安らしい表情が見えた。
「おとなしくして待っているのだよ」と、笑談《じょうだん》らしく云って、末造は巻烟草入《まきたばこいれ》をしまった。そしてついと立って戸口へ出た。
「まあお茶も上げないうちに」と云いさして、投げるように櫛を櫛箱に入れたお玉が、見送りに起《た》って出た時には、末造はもう格子戸を開けていた。
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