トいるらしく見えていたが、この詞《ことば》を聞いて、岡田の方を見た。そして何か言いそうにして躊躇《ちゅうちょ》して、目を脇へそらした。それと同時に女は岡田の手に少し血の附いているのを見附けた。「あら、あなたお手がよごれていますわ」と云って、女中を呼んで上り口へ手水盥《ちょうずだらい》を持って来させた。岡田はこの話をする時女の態度を細かには言わなかったが、「ほんの少しばかり小指の所に血の附いていたのを、よく女が見附けたと、僕は思ったよ」と云った。
岡田が手を洗っている最中に、それまで蛇の吭《のど》から鳥の死骸を引き出そうとしていた小僧が、「やあ大変」と叫んだ。
新しい手拭《てぬぐい》の畳んだのを持って、岡田の側に立っている女主人が、開けたままにしてある格子戸に片手を掛けて外を覗いて、「小僧さん、何」と云った。
小僧は手をひろげて鳥籠を押さえていながら、「も少しで蛇が首を入れた穴から、生きている分の鳥が逃げる所でした」と云った。
岡田は手を洗ってしまって、女のわたした手拭でふきつつ、「その手を放さずにいるのだぞ」と小僧に言った。そして何かしっかりした糸のような物があるなら貰いたい、鳥が籠の穴から出ないようにするのだと云った。
女はちょっと考えて、「あの元結《もとゆい》ではいかがでございましょう」と云った。
「結構です」と岡田が云った。
女主人は女中に言い附けて、鏡台の抽斗《ひきだし》から元結を出して来させた。岡田はそれを受け取って、鳥籠の竹の折れた跡に縦横に結び附けた。
「先ず僕の為事はこの位でおしまいでしょうね」と云って、岡田は戸口を出た。
女主人は「どうもまことに」と、さも詞に窮したように云って、跡から附いて出た。
岡田は小僧に声を掛けた。「小僧さん。御苦労|序《ついで》にその蛇を棄ててくれないか」
「ええ。坂下のどぶの深い処へ棄てましょう。どこかに縄は無いかなあ」こう云って小僧はあたりを見廻した。
「縄はあるから上げますよ。それにちょっと待っていて下さいな」女主人は女中に何か言い附けている。
その隙《ひま》に岡田は「さようなら」と云って、跡を見ずに坂を降りた。
――――――――――――――――
ここまで話してしまった岡田は僕の顔を見て、「ねえ、君、美人の為めとは云いながら、僕は随分働いただろう」と云った。
「うん。女のために蛇を殺すと云うのは、神話めいていて面白いが、どうもその話はそれぎりでは済みそうにないね」僕は正直に心に思う通りを言った。
「馬鹿を言い給え、未完の物なら、発表しはしないよ」岡田がこう云ったのも、矯飾《きょうしょく》して言ったわけではなかったらしい。しかし仮にそれぎりで済む物として、幾らか残惜しく思う位の事はあったのだろう。
僕は岡田の話を聞いて、単に神話らしいと云ったが、実は今一つすぐに胸に浮んだ事のあるのを隠していた。それは金瓶梅を読みさして出た岡田が、金蓮《きんれん》に逢ったのではないかと思ったのである。
大学の小使上がりで今金貸しをしている末造の名は、学生中に知らぬものが無い。金を借らぬまでも、名だけは知っている。しかし無縁坂の女が末造の妾《めかけ》だと云うことは、知らぬ人もあった。岡田はその一人《いちにん》である。僕はその頃まだ女の種性《すじょう》を好くも知らなかったが、それを裁縫の師匠の隣に囲って置くのが末造だと云うことだけは知っていた。僕の智識には岡田に比べて一日《いちじつ》の長があった。
弐拾《にじゅう》
岡田に蛇を殺して貰った日の事である。お玉はこれまで目で会釈をした事しか無い岡田と親しく話をした為めに、自分の心持が、我ながら驚く程急劇に変化して来たのを感じた。女には欲しいとは思いつつも買おうとまでは思わぬ品物がある。そう云う時計だとか指環《ゆびわ》だとかが、硝子窓の裏に飾ってある店を、女はそこを通る度に覗《のぞ》いて行く。わざわざその店の前に往こうとまではしない。何か外の用事でそこの前を通り過ぎることになると、きっと覗いて見るのである。欲しいと云う望みと、それを買うことは所詮《しょせん》企て及ばぬと云う諦《あきら》めとが一つになって、或る痛切で無い、微《かす》かな、甘い哀傷的情緒が生じている。女はそれを味うことを楽みにしている。それとは違って、女が買おうと思う品物はその女に強烈な苦痛を感ぜさせる。女は落ち着いていられぬ程その品物に悩まされる。縦《たと》い幾日か待てば容易《たやす》く手に入《い》ると知っても、それを待つ余裕が無い。女は暑さをも寒さをも夜闇《よやみ》をも雨雪《うせつ》をも厭《いと》わずに、衝動的に思い立って、それを買いに往くことがある。万引なんと云うことをする女も、別に変った木で刻まれたものでは無い。只この欲しい物と買いたい物との境界がぼやけてしまった女たるに過ぎない。岡田はお玉のためには、これまで只欲しい物であったが、今や忽《たちま》ち変じて買いたい物になったのである。
お玉は小鳥を助けて貰ったのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思った。最初に考えたのは、何か品物を梅に持たせて礼に遣ろうかと云う事である。さて品物は何にしようか、藤村の田舎饅頭《いなかまんじゅう》でも買って遣ろうか。それでは余り智慧《ちえ》が無さ過ぎる。世間並の事、誰《たれ》でもしそうな事になってしまう。そんならと云って、小切れで肘衝《ひじつき》でも縫って上げたら、岡田さんにはおぼこ娘の恋のようで可笑《おか》しいと思われよう。どうも好《い》い思附《おもいつ》きが無い。さて品物は何か工夫が附いたとして、それをつい梅に持たせて遣ったものだろうか。名刺はこないだ仲町で拵《こしら》えさせたのがあるが、それを添えただけでは、物足らない。ちょっと一筆《ひとふで》書いて遣りたい。さあ困った。学校は尋常科が済むと下がってしまって、それからは手習をする暇も無かったので、自分には満足な手紙は書けない。無論あの御殿奉公をしたと云うお隣のお師匠さんに頼めばわけは無い。しかしそれは厭《いや》だ。手紙には何も人に言われぬような事を書く積りではないが、とにかく岡田さんに手紙を遣ると云うことを、誰にも知らせたくない。まあ、どうしたものだろう。
丁度同じ道を往ったり来たりするように、お玉はこれだけの事を順に考え逆に考え、お化粧や台所の指図に一旦まぎれて忘れては又思い出していた。そのうち末造が来た。お玉は酌をしつつも思い出して、「何をそんなに考え込んでいるのだい」と咎《とが》められた。「あら、わたくしなんにも考えてなんぞいはしませんわ」と、意味の無い笑顔をして見せて、私《ひそ》かに胸をどき附かせた。しかしこの頃はだいぶ修行が詰《つ》んで来たので、何物かを隠していると云うことを、鋭い末造の目にも、容易に見抜かれるような事は無かった。末造が帰った跡で見た夢に、お玉はとうとう菓子折を買って来て、急いで梅に持たせて出した。その跡で名刺も添えず手紙も附けずに遣ったのに気が附いて、はっと思うと、夢が醒《さ》めた。
翌日になった。この日は岡田が散歩に出なかったか、それともこっちで見はずしたか、お玉は恋しい顔を見ることが出来なかった。その次の日は岡田が又いつものように窓の外を通った。窓の方をちょいと見て通り過ぎたが、内が暗いのでお玉と顔を見合せることは出来なかった。その又次の日は、いつも岡田の通る時刻になると、お玉は草帚《くさぼうき》を持ち出して、格別|五味《ごみ》も無い格子戸の内を丁寧に掃除して、自分の穿《は》いている雪踏《せった》の外、只一足しか出して無い駒下駄を、右に置いたり、左に置いたりしていた。「あら、わたくしが掃きますわ」と云って、台所から出た梅を、「好いよ、お前は煮物を見ていておくれ、わたし用が無いからしているのだよ」と云って追い返した。そこへ丁度岡田が通り掛かって、帽を脱いで会釈をした。お玉は帚を持ったまま顔を真っ赤にして棒立に立っていたが、何も言うことが出来ずに、岡田を行き過ぎさせてしまった。お玉は手を焼いた火箸《ひばし》をほうり出すように帚を棄てて、雪踏を脱いで急いで上がった。
お玉は箱火鉢の傍《そば》へすわって、火をいじりながら思った。まあ、私はなんと云う馬鹿だろう。きょうのような涼しい日には、もう窓を開けて覗いていては可笑しいと思って、余計な掃除の真似なんぞをして、切角待っていた癖に、いざと云う場になると、なんにも言うことが出来なかった。檀那の前では間の悪いような風はしていても、言おうとさえ思えば、どんな事でも言われぬことは無い。それに岡田さんにはなぜ声が掛けられなかったのだろう。あんなにお世話になったのだから、お礼を言うのは当前《あたりまえ》だ。それがきょう言われぬようでは、あの方に物を言う折は無くなってしまうかも知れない。梅を使にして何か持たせて上げようと思っても、それは出来ず、お目に掛かっても、物を言うことが出来なくては、どうにも為様《しよう》がなくなってしまう。一体わたしはあの時なぜ声が出なかったのだろう。そう、そう。あの時わたしは慥《たし》かに物を言おうとした。唯何と云って好《よ》いか分からなかったのだ。「岡田さん」と馴々しく呼び掛けることは出来ない。そんならと云って、顔を見合せて「もしもし」とも云いにくい。ほんにこう思って見ると、あの時まごまごしたのも無理はない。こうしてゆっくり考えて見てさえ、なんと云って好《い》いか分からないのだもの。いやいや。こんな事を思うのは矢《や》っ張《ぱり》わたしが馬鹿なのだ。声なんぞを掛けるには及ばない。すぐに外へ駆け出せば好かったのだ。そうしたら岡田さんが足を駐《と》めたに違いない。足さえ駐めて貰えば、「あの、こないだは飛んだ事でお世話様になりまして」とでも、なんとでも云うことが出来たのだ。お玉はこんな事を考えて火をいじっているうちに、鉄瓶の蓋《ふた》が跳《おど》り出したので、湯気を洩《も》らすように蓋を切った。
それからはお玉は自分で物を言おうか、使を遣ろうかと二様に工夫を凝らしはじめた。そのうち夕方は次第に涼しくなって、窓の障子は開けていにくい。庭の掃除はこれまで朝一度に極《き》まっていたのに、こないだの事があってからは、梅が朝晩に掃除をするので、これも手が出しにくい。お玉は湯に往く時刻を遅くして、途中で岡田に逢おうとしたが、坂下の湯屋までの道は余り近いので、なかなか逢うことが出来なかった。又使を遣ると云うことも、日数《ひかず》が立てば立つ程出来にくくなった。
そこでお玉は一時こんな事を思って、無理に諦めを附けていた。わたしはあれきり岡田さんにお礼を言わないでいる。言わなくては済まぬお礼が言わずにあって見れば、わたしは岡田さんのしてくれた事を恩に被《き》ている。このわたしが恩に被ていると云うことは岡田さんには分かっている筈である。こうなっているのが、却《かえ》って下手にお礼をしてしまったより好《い》いかも知れぬと思ったのである。
しかしお玉はその恩に被ていると云うことを端緒にして、一刻も早く岡田に近づいて見たい。唯その方法手段が得られぬので、日々《にちにち》人知れず腐心している。
――――――――――――――――
お玉は気の勝った女で、末造に囲われることになってから、短い月日の間に、周囲から陽に貶《おとし》められ、陰に羨《うらや》まれる妾と云うものの苦しさを味って、そのお蔭《かげ》で一種の世間を馬鹿にしたような気象を養成してはいるが、根が善人で、まだ人に揉《も》まれていぬので、下宿屋に住まっている書生の岡田に近づくのをひどくおっくうに思っていたのである。
そのうち秋日和に窓を開けていて、又岡田と会釈を交す日があっても、切角親しく物を言って、手拭を手渡ししたのが、少しも接近の階段を形づくらずにしまって、それ程の事のあった後《のち》が、何事もなかった前と、なんの異なる所もなくなっていた。お玉はそれをひどくじれったく思った。
末造が来ていても、箱火鉢を中に置いて、向き合って話をしている間に、これ
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