それからは岡田は極まって窓の女に礼をして通る。
参《さん》
岡田は虞初新誌《ぐしょしんし》が好きで、中にも大鉄椎伝《だいてっついでん》は全文を諳誦《あんしょう》することが出来る程であった。それで余程前から武芸がして見たいと云う願望《がんもう》を持っていたが、つい機会が無かったので、何にも手を出さずにいた。近年競漕をし始めてから、熱心になり、仲間に推されて選手になる程の進歩をしたのは、岡田のこの一面の意志が発展したのであった。
同じ虞初新誌の中《うち》に、今一つ岡田の好きな文章がある。それは小青伝であった。その伝に書いてある女、新しい詞で形容すれば、死の天使を閾《しきい》の外に待たせて置いて、徐《しず》かに脂粉の粧《よそおい》を擬《こら》すとでも云うような、美しさを性命にしているあの女が、どんなにか岡田の同情を動かしたであろう。女と云うものは岡田のためには、只美しい物、愛すべき物であって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持していなくてはならぬように感ぜられた。それには平生|香奩体《こうれんたい》の詩を読んだり、sentimental《サンチマンタル》 な
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