その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。
上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外《ほか》は大学の附属病院に通う患者なんぞであった。大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気《こぎ》が利いていて、お上《かみ》さんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。時々はその箱火鉢の向側《むこうがわ》にしゃがんで、世間話の一つもする。部屋で酒盛をして、わざわざ肴《さかな》を拵《こしら》えさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘《わがまま》をするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。先《ま》ずざっとこう云う性《たち》の男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅《ほしいまま》にすると云うのが常である。然《しか》るに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗《すこぶ》る趣を殊にしていた。
この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。それは美男
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