って、無理に留めようとする。行先《ゆくさき》を言えば嘘だと云う。構わずに出ようとすると、是非聞きたい事があるから、ちょいとでも好《い》い、待って貰いたいと云う。着物を掴《つか》まえて放さなかったり、玄関に立ち塞《ふさ》がったり、女中の見る目も厭《いと》わずに、出て行くのを妨げようとする。末造は気に食わぬ事をも笑談のようにして荒立てずに済ます流義なのに、むしゃぶり附くのを振り放す、女房が倒れると云う不体裁を女中に見られた事もある。そんな時に末造がおとなしく留められて内にいて、さあ、用事を聞こうと云うと、「あなたわたしをどうしてくれる気なの」とか、「こうしていて、わたしの行末はどうなるでしょう」とか、なかなか一朝一夕に解決の出来ぬ難問題を提出する。要するに末造が女房の病気に試みた早出《はやで》遅帰《おそがえり》の対症療法は全く功を奏せなかったのである。
 末造は又考えて見た。女房は己の内にいる時の方が機嫌が悪い。そこで内にいまいとすれば、強いて内にいさせようとする。そうして見れば、求めて己を内にいさせて、求めて自分の機嫌を悪くしているのである。それに就いて思い出した事がある。和泉橋《いずみばし》時代に金を貸して遣った学生に猪飼《いかい》と云うのがいた。身なりに少しも構わないと云う風をして、素足に足駄を穿《は》いて、左の肩を二三寸高くして歩いていた。そいつがどうしても金を返さず、書換もせずに逃げ廻っていたのに、或日|青石横町《あおいしよこちょう》の角で出くわした。「どこへ行くのです」と云うと、「じきそこの柔術の先生の所へ行くのだよ。例のはいずれそのうち」と云って摩《す》り抜けて行った。己はそのまま別れて歩き出す真似をして、そっと跡へ戻って、角に立って見ていた。猪飼は伊予紋に這入った。己はそれを突き留めて置いて、広小路で用を達《た》して、暫《しばら》く立ってから伊予紋へ押し掛けて行った。猪飼|奴《め》さすがに驚いたが、持前の豪傑気取で、芸者を二人呼んで馬鹿騒ぎをしている席へ、己を無理に引き摩《ず》り上げて、「野暮を言わずにきょうは一杯飲んでくれ」と云って、己に酒を飲ませやがった。あの時己は始て芸者と云うものを座敷で見たが、その中に凄《すご》いような意気な女がいた。おしゅんと云ったっけ。そいつが酔っ払って猪飼の前に据わって、何が癪《しゃく》に障っていたのだか、毒づき始めた。その時の詞を、己は黙って聞いていたが、いまだに忘れない。「猪飼さん。あなたきつそうな風をしていても、まるでいく地のない方ね。あなたに言って聞かせて置くのですが、女と云うものは時々ぶんなぐってくれる男にでなくっては惚《ほ》れません。好く覚えていらっしゃい」と云ったっけ。芸者には限らない。女と云うものはそうしたものかも知れない。この頃のお常|奴《め》は、己を傍に引き附けて置いてふくれ面をして抗《あらが》ってばかしいようとしやがる。己にどうかして貰いたいと云う様子が見えている。打たれたいのだ。そうだ。打たれたいのだ。それに相違ない。お常奴は己がこれまで食う物もろくに食わせないで、牛馬《うしうま》のように働かせていたものだから、獣のようになっていて、女らしい性質が出ずにいたのだ。それが今の家に引き越した頃から、女中を使って、奥さんと云われて、だいぶ人間らしい暮らしをして、少し世間並の女になり掛かって来たのだ。そこでおしゅんの云ったようにぶんなぐって貰いたくなったのだ。
 そこで己はどうだ。金の出来るまでは、人になんと云われても構わない。乳臭い青二才にも、旦那と云ってお辞儀をする。踏まれても蹴《け》られても、損さえしなければ好《い》いと云う気になって、世間を渡って来た。毎日毎日どこへ往《い》っても、誰《たれ》の前でも、平蜘妹《ひらぐも》のようになって這いつくばって通った。世間の奴等に附き合って見るに、目上に腰の低い奴は、目下にはつらく当って、弱いものいじめをする。酔って女や子供をなぐる。己には目上も目下もない。己に金を儲《もう》けさせてくれるものの前には這いつくばう。そうでない奴は、誰でも彼でも一切いるもいないも同じ事だ。てんで相手にならない。打ち遣って置く。なぐるなんと云う余計な手数《てすう》は掛けない。そんな無駄をする程なら、己は利足《りそく》の勘定でもする。女房をもその扱いにしていたのだ。
 お常奴己になぐって貰いたくなったのだ。当人には気の毒だが、こればかりはお生憎様《あいにくさま》だ。債務者の脂を柚子《ゆず》なら苦い汁が出るまで絞ることは己に出来る。誰をも打つことは出来ない。末造はこんな事を考えたのである。

     拾陸《じゅうろく》

 無縁坂の人通りが繁くなった。九月になって、大学の課程が始まるので、国々へ帰っていた学生が、一時《いちじ》に本郷|界隈《かいわい
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