じゃなかったのね」
「お前ばかしでなくて、誰に買って遣るものかい」
「いいえ。そうじゃないでしょう。あれは無縁坂の女のを買った序に、ふいと思い附いて、わたしのをも買って来たのでしょう」さっきから蝙蝠の話はしていても、こう具体的に云うと同時に、お常は悔やしさが込み上げて来るように感ずるのである。
「お手の筋」だとでも云いたい程適中したので、末造はぎくりとしたが、反対に呆《あき》れたような顔をして見せた。「べらぼうな話だなあ。何かい。その、お前に買った傘と同じ傘を、吉田さんの女が持っているとでも云うわけかい」
「それは同じのを買って遣ったのだから、同じのを持っているに極まっています」声が際立って鋭くなっている。
「なんの事だ。呆れたものだぜ。好い加減にしろい。なる程お前に横浜で買って遣った時は、サンプルで来たのだと云うことだったが、もう今頃は銀座辺でざらに売っているに違ない。芝居なんぞに好くある奴で、これがほんとの無実の罪と云うのだ。そして何かい。お前、あの吉田さんの女に、どこかで逢ったとでも云うのかい。好く分かったなあ」
「それは分かりますとも。ここいらで知らないものはないのです。別品だから」にくにくしい声である。これまでは末造がしらばっくれると、ついそうかと思ってしまったが、今度は余り強烈な直覚をして、その出来事を目前に見たように感じているので、末造の詞《ことば》を、なる程そうでもあろうかとは、どうしても思われなかった。
末造はどうして逢ったか、話でもしたのかと、種々《いろいろ》に考えていながら、この場合に根掘り葉掘り問うのは不利だと思って、わざと迫窮しない。「別品だって。あんなのが別品と云うのかなあ。妙に顔の平べったいような女だが」
お常は黙っていた。しかし憎い女の顔に難癖を附けた夫の詞に幾分か感情を融和させられた。
この晩にも物を言い合って興奮した跡の夫婦の中直りがあった。しかしお常の心には、刺されたとげの抜けないような痛みが残っていた。
拾伍《じゅうご》
末造の家の空気は次第に沈んだ、重くろしい方へ傾いて来た。お常は折々只ぼうっとして空《くう》を見ていて、何事も手に附かぬことがある。そんな時には子供の世話も何も出来なくなって、子供が何か欲しいと云えば、すぐにあらあらしく叱る。叱って置いて気が附いて、子供にあやまったり、独りで泣いたりする。女中が飯の菜を何にしようかと問うても、返事をしなかったり、「お前の好《い》いようにおし」と云ったりする。末造の子供は学校では、高利貸の子だと云って、友達に擯斥《ひんせき》せられても、末造が綺麗好で、女房に世話をさせるので、目立って清潔になっていたのが、今は五味《ごみ》だらけの頭をして、綻《ほころ》びたままの着物を着て往来で遊んでいることがあるようになった。下女はお上さんがあんなでは困ると、口小言を言いながら、下手の乗っている馬がなまけて道草を食うように、物事を投遣《なげやり》にして、鼠入らずの中で肴《さかな》が腐ったり、野菜が干物になったりする。
家の中の事を生帳面《きちょうめん》にしたがる末造には、こんな不始末を見ているのが苦痛でならない。しかしこうなった元は分かっていて、自分が悪いのだと思うので、小言を言うわけにも行かない。それに末造は平生小言を言う場合にも、笑談《じょうだん》のように手軽に言って、相手に反省させるのを得意としているのに、その笑談らしい態度が却《かえ》って女房の機嫌を損ずるように見える。
末造は黙って女房を観察し出した。そして意外な事を発見した。それはお常の変な素振が、亭主の内にいる時殊に甚しくて、留守になると、却って醒覚《せいかく》したようになって働いていることが多いと云う事である。子供や下女の話を聞いて、この関係を知った時、末造は最初は驚いたが、怜悧《れいり》な頭で色々に考えて見た。これはする事の気に食わぬ己《おれ》の顔を見ている間、この頃の病気を出すのだ。己は女房にどうかして夫が冷澹《れいたん》だと思わせまい、疎まれるように感ぜさせまいとしているのに、却って己が内にいる時の方が不機嫌だとすると、丁度薬を飲ませて病気を悪くするようなものである。こんなつまらぬ事はない。これからは一つ反対にして見ようと末造は思った。
末造はいつもより早く内を出たり、いつもより遅く内へ帰ったりするようになった。しかしその結果は非常に悪かった。早く出た時は、女房が最初は只驚いて黙って見ていた。遅く帰った時は、最初の度にいつもの拗《す》ねて見せる消極的手段と違って、もう我慢がし切れない、勘忍袋の緒が切れたと云う風で、「あなた今までどこにいましたの」と詰め寄って来た。そして爆発的に泣き出した。その次の度からは早く出ようとすると、「あなた今からどこへ行くのです」と云
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