》の下宿屋に戻ったのである。
朝晩はもう涼しくても、昼中はまだ暑い日がある。お玉の家では、越して来た時掛け替えた青簾《あおすだれ》の、色の褪《さ》める隙《ひま》のないのが、肱掛窓《ひじかけまど》の竹格子の内側を、上から下まで透間《すきま》なく深く鎖《とざ》している。無聊《ぶりょう》に苦んでいるお玉は、その窓の内で、暁斎《ぎょうさい》や是真《ぜしん》の画のある団扇を幾つも挿した団扇挿しの下の柱にもたれて、ぼんやり往来を眺めている。三時が過ぎると、学生が三四人ずつの群をなして通る。その度毎に、隣の裁縫の師匠の家で、小雀の囀《さえず》るような娘達の声が一際|喧《やかま》しくなる。それに促されてお玉もどんな人が通るかと、覚えず気を附けて見ることがある。
その頃の学生は、七八分通りは後《のち》に言う壮士肌で、稀《まれ》に紳士風なのがあると、それは卒業|直前《すぐまえ》の人達であった。色の白い、目鼻立の好《い》い男は、とかく軽薄らしく、利いた風で、懐かしくない。そうでないのは、学問の出来る人がその中にあるのかは知れぬが、女の目には荒々しく見えて厭《いや》である。それでもお玉は毎日見るともなしに、窓の外を通る学生を見ている。そして或る日自分の胸に何物かが芽ざして来ているらしく感じて、はっと驚いた。意識の閾《しきい》の下で胎を結んで、形が出来てから、突然躍り出したような想像の塊《かたまり》に驚かされたのである。
お玉は父親を幸福にしようと云う目的以外に、何の目的も有していなかったので、無理に堅い父親を口説き落すようにして人の妾《めかけ》になった。そしてそれを堕落せられるだけ堕落するのだと見て、その利他的行為の中《うち》に一種の安心を求めていた。しかしその檀那《だんな》と頼んだ人が、人もあろうに高利貸であったと知った時は、余りの事に途方に暮れた。そこでどうも自分一人で胸のうやもやを排し去ることが出来なくなって、その心持を父親に打ち明けて、一しょに苦み悶《もだ》えて貰おうと思った。そうは思ったものの、池の端の父親を尋ねてその平穏な生活を目《ま》のあたり見ては、どうも老人の手にしている杯《さかずき》の裡《うち》に、一滴の毒を注ぐに忍びない。よしやせつない思をしても、その思を我胸一つに畳んで置こうと決心した。そしてこの決心と同時に、これまで人にたよることしか知らなかったお玉が、始て独立したような心持になった。
この時からお玉は自分で自分の言ったり為《し》たりする事を窃《ひそか》に観察するようになって、末造が来てもこれまでのように蟠《わだか》まりのない直情で接せずに、意識してもてなすようになった。その間《あいだ》別に本心があって、体を離れて傍《わき》へ退《の》いて見ている。そしてその本心は末造をも、末造の自由になっている自分をも嘲笑《あざわら》っている。お玉はそれに始て気が附いた時ぞっとした。しかし時が立つと共に、お玉は慣れて、自分の心はそうなくてはならぬもののように感じて来た。
それからお玉が末造を遇することは愈《いよいよ》厚くなって、お玉の心は愈末造に疎くなった。そして末造に世話になっているのが難有《ありがた》くもなく、自分が末造の為向けてくれる事を恩に被《き》ないでも、それを末造に対して気の毒がるには及ばぬように感ずる。それと同時に又なんの躾《しつけ》をも受けていない芸なしの自分ではあるが、その自分が末造の持物になって果てるのは惜しいように思う。とうとう往来を通る学生を見ていて、あの中に若し頼もしい人がいて、自分を今の境界《きょうがい》から救ってくれるようにはなるまいかとまで考えた。そしてそう云う想像に耽《ふけ》る自分を、忽然《こつぜん》意識した時、はっと驚いたのである。
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この時お玉と顔を識《し》り合ったのが岡田であった。お玉のためには岡田も只窓の外を通る学生の一人に過ぎない。しかし際立って立派な紅顔の美少年でありながら、己惚《うぬぼれ》らしい、気障《きざ》な態度がないのにお玉は気が附いて、何とはなしに懐かしい人柄だと思い初《そ》めた。それから毎日窓から外を見ているにも、又あの人が通りはしないかと待つようになった。
まだ名前も知らず、どこに住まっている人か知らぬうちに、度々顔を見合わすので、お玉はいつか自然に親しい心持になった。そしてふと自分の方から笑い掛けたが、それは気の弛《ゆる》んだ、抑制作用の麻痺《まひ》した刹那の出来事で、おとなしい質《たち》のお玉にはこちらから恋をし掛けようと、はっきり意識して、故意にそんな事をする心はなかった。
岡田が始て帽子を取って会釈した時、お玉は胸を躍らせて、自分で自分の顔の赤くなるのを感じた。女は直覚が鋭い。お玉には岡田の帽子を取ったのが発作的行為で、
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