と云えば」末造は再び女房の手を振り放した。「子供が目を覚すじゃないか。それに女中部屋にも聞える」翳《かす》めた声に力を入れて云ったのである。
 末の子が寝返りをして、何か夢中で言ったので、お上さんも覚えず声を低うして、「一体わたしどうすれば好《い》いのでしょう」と云って、今度は末造の胸の所に顔を押し附けて、しくしく泣いている。
「どうするにも及ばないのだ。お前が人が好《い》いもんだから、人に焚《た》き附けられたのだ。妾だの、囲物だのって、誰《たれ》がそんな事を言ったのだい」こう云いながら、末造はこわれた丸髷のぶるぶる震えているのを見て、醜い女はなぜ似合わない丸髷を結いたがるものだろうと、気楽な問題を考えた。そして丸髷の震動が次第に細かく刻むようになると同時に、どの子供にも十分の食料を供給した、大きい乳房が、懐炉を抱いたように水落《みずおち》の辺《あたり》に押し附けられるのを末造は感じながら、「誰が言ったのだ」と繰り返した。
「誰だって好いじゃありませんか。本当なんだから」乳房の圧はいよいよ加わって来る。
「本当でないから、誰でも好くはないのだ。誰だかそう云え」
「それは言ったってかまいませんとも。魚金《うおきん》のお上さんなの」
「なにまるで狸《たぬき》が物を言うようで、分かりゃあしない。むにゃむにゃのむにゃむにゃさんなのとはなんだい」
 お上さんは顔を末造の胸から離して、悔やしそうに笑った。「魚金のお上さんだと、そう云っているじゃありませんか」
「うん。あいつか。おお方そんな事だろうと思った」末造は優しい目をして、女房の逆上したような顔を見ながら、徐《しず》かに金天狗に火を附けた。「新聞屋なんかが好く社会の制裁だのなんのと云うが、己はその社会の制裁と云う奴を見た事がねえ。どうかしたら、あの金棒引なんかが、その制裁と云う奴かも知れねえ。近所中のおせっかいをしやがる。あんな奴の言う事を真《ま》に受けてたまるものか。己が今本当の事を云って聞して遣《や》るから、好く聞いていろ」
 お上さんの頭は霧が掛かったように、ぼうっとしているが、もしや騙《だま》されるのではあるまいかと云う猜疑《さいぎ》だけは醒《さ》めている。それでも熱心に末造の顔を見て謹聴している。今社会の制裁と云うことを言われた時もそうであるが、いつでも末造が新聞で読んだ、むずかしい詞を使って何か言うと、お上さんは気おくれがして、分からぬなりに屈服してしまうのである。
 末造は折々烟草を呑んで烟《けぶり》を吹きながら、矢張《やはり》女房の顔を暗示するようにじっと見て、こんな事を言っている。「それ、お前も知っているだろう。まだ大学があっちにあった頃、好く内に来た吉田さんと云うのがいたなあ。あの金縁目金《きんぶちめがね》を掛けて、べらべらした着物を着ていた人よ。あれが千葉の病院へ行っているが、まだ己の方の勘定が二年や三年じゃあ埒《らち》が明かねえんだ。あの吉田さんが寄宿舎にいた時から出来ていた女で、こないだまで七曲《ななまが》りの店《たな》を借りて入れてあったのだ。最初は月々|極《き》まって為送《しおく》りをしていたところが、今年になってから手紙もよこさなけりゃ、金もよこさねえ。そこで女が先方へ掛け合ってくれろと云って己に頼んだのだ。どうして己を知っているかと思うだろうが、吉田さんは度々己の内へ来ると人の目に附いて困るからと云って、己を七曲の内へ呼んで書換の話なんぞをした事がある。その時から女が己を知っていたのだ。己も随分迷惑な話だが、序《ついで》だから掛け合って遣ったよ。ところがなかなか埒は明かねえ。女はしつっこく頼む。己は飛んだ奴に引っ掛かったと思って持て扱っているのだ。お負《まけ》に小綺麗《こぎれい》な所で店賃の安い所へ越したいから、世話をしてくれろと云うので、切通しの質屋の隠居のいた跡へ、面倒を見て越させて遣った。それやこれやで、こないだからちょいちょい寄って、烟草を二三服呑んだ事があるもんだから、近所の奴がかれこれ言やあがるのだろう。隣は女の子を集めて、為立物の師匠をしていると云うのだから、口はうるさいやな。あんな所に女を囲って置く馬鹿があるものか」こんな事を言って、末造はさげすんだように笑った。
 お上さんは小さい目を赫《かがや》かして、熱心に聞いていたが、この時甘えたような調子でこう云った。「それはお前さんの云う通りかも知れないけれど、そんな女の所へ度々行くうちには、どうなるか知れたものじゃありゃしない。どうせお金で自由になるような女だもの」お上さんはいつか「あなた」を忘れている。
「馬鹿言え。己がお前と云うものがあるのに、外《ほか》の女に手を出すような人間かい。これまでだって、女をどうしたと云うことが、只の一度でもあったかい。もうお互に焼餅喧嘩《やきもちげんか》
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