で、お午《ひる》の支度だって、わたくしが帰って手伝って遣らなくては出来ないの」
「檀那にことわって来たのなら、午もこっちで食べて行けば好《い》い」
「いいえ。不用心ですわ。またすぐ出掛けて来てよ。お父っさん。さようなら」
 お玉が立ち上がるとたんに、女中が慌てて履物を直しに出た。気が利かぬようでも、女は女に遭遇して観察をせずには置かない。道で行《ゆ》き合っても、女は自己の競争者として外の女を見ると、或る哲学者は云った。汁椀の中へ親指を衝っ込む山出しの女でも、美しいお玉を気にして、立聴《たちぎき》をしていたものと見える。
「じゃあ又来るが好い。檀那に宜しく言ってくれ」爺いさんは据わったままこう云った。
 お玉は小さい紙入を黒襦子《くろじゅす》の帯の間から出して、幾らか紙に撚《ひね》って女中に遣って置いて、駒下駄を引っ掛けて、格子戸の外へ出た。
 たよりに思う父親に、苦しい胸を訴えて、一しょに不幸を歎く積で這入った門《かど》を、我ながら不思議な程、元気好くお玉は出た。切角安心している父親に、余計な苦労を掛けたくない、それよりは自分を強く、丈夫に見せて遣りたいと、努力して話をしているうちに、これまで自分の胸の中《うち》に眠っていた或る物が醒覚《せいかく》したような、これまで人にたよっていた自分が、思い掛けず独立したような気になって、お玉は不忍の池の畔《ほとり》を、晴やかな顔をして歩いている。
 もう上野の山をだいぶはずれた日がくわっと照って、中島の弁天の社《やしろ》を真っ赤に染めているのに、お玉は持って来た、小さい蝙蝠《こうもり》をも挿《さ》さずに歩いているのである。

     拾弐《じゅうに》

 或る晩末造が無縁坂から帰って見ると、お上さんがもう子供を寝かして、自分だけ起きていた。いつも子供が寝ると、自分も一しょに横になっているのが、その晩は据わって俯向《うつむき》加減になっていて、末造が蚊屋《かや》の中に這入って来たのを知っていながら、振り向いても見ない。
 末造の床は一番奥の壁際に、少し離して取ってある。その枕元には座布団が敷いて、烟草盆と茶道具とが置いてある。末造は座布団の上に据わって、烟草を吸い附けながら、優しい声で云った。
「どうしたのだ。まだ寐《ね》ないでいるね」
 お上さんは黙っている。
 末造も再び譲歩しようとはしない。こっちから媾和《こうわ》を持ち出したに、彼が応ぜぬなら、それまでの事だと思って、わざと平気で烟草を呑《の》んでいる。
「あなた今までどこにいたんです」お上さんは突然頭を持ち上けて、末造を見た。奉公人を置くようになってから、次第に詞を上品にしたのだが、差向いになると、ぞんざいになる。ようよう「あなた」だけが維持せられている。
 末造は鋭い目で一目女房を見たが、なんとも云わない。何等《なにら》かの知識を女房が得たらしいとは認めても、その知識の範囲を測り知ることが出来ぬので、なんとも云うことが出来ない。末造は妄《みだ》りに語って、相手に材料を供給するような男ではない。
「もう何もかも分かっています」鋭い声である。そして末の方は泣声になり掛かっている。
「変な事を言うなあ。何が分かったのだい」さも意外な事に遭遇したと云うような調子で、声はいたわるように優しい。
「ひどいじゃありませんか。好くそんなにしらばっくれていられる事ね」夫の落ち着いているのが、却《かえ》って強い刺戟《しげき》のように利くので、上さんは声が切れ切れになって、湧《わ》いて来る涙を襦袢《じゅばん》の袖でふいている。
「困るなあ。まあ、なんだかそう云って見ねえ。まるっきり見当が附かない」
「あら。そんな事を。今夜どこにいたのだか、わたしにそう云って下さいと云っているのに。あなた好くそんな真似が出来た事ね。わたしには商用があるのなんのと云って置いて、囲物なんぞを拵えて」鼻の低い赤ら顔が、涙で※[#「火+(世/木)」、第3水準1−87−56]《ゆ》でたようになったのに、こわれた丸髷《まるまげ》の鬢《びん》の毛が一握《ひとにぎり》へばり附いている。潤んだ細い目を、無理に大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、末造の顔を見ていたが、ずっと傍へいざり寄って、金天狗《きんてんぐ》の燃えさしを撮《つま》んでいた末造の手に、力一ぱいしがみ附いた。
「廃《よ》せ」と云って、末造はその手を振り放して、畳の上に散った烟草の燃えさしを揉《も》み消した。
 お上さんはしゃくり上げながら、又末造の手にしがみ附いた。「どこにだって、あなたのような人があるでしょうか。いくらお金が出来たって、自分ばかり檀那顔《だんながお》をして、女房には着物一つ拵えてはくれずに、子供の世話をさせて置いて、好《い》い気になって妾狂《めかけぐる》いをするなんて」
「廃せ
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