をする年でもあるめえ。好い加減にしろ」末造は存外容易に弁解が功を奏したと思って、心中に凱歌《がいか》を歌っている。
「だってお前さんのようにしている人を、女は好くものだから、わたしゃあ心配さ」
「へん。あが仏尊しと云う奴だ」
「どう云うわけなの」
「己のような男を好いてくれるのは、お前ばかりだと云うことよ。なんだ。もう一時を過ぎている。寝よう寝よう」
拾参《じゅうさん》
真実と作為とを綯交《ないまぜ》にした末造の言分けが、一時《いちじ》お上さんの嫉妬《しっと》の火を消したようでも、その効果は勿論《もちろん》 palliatif《パリアチイフ》 なのだから、無縁坂上に実在している物が、依然実在している限《かぎり》は、蔭口《かげぐち》やら壁訴訟やらの絶えることはない。それが女中の口から、「今日も何某《なにがし》が檀那様の格子戸にお這入になるのを見たそうでございます」と云うような詞になって、お上さんの耳に届く。しかし末造は言分けには窮せない。商用とやらが、そう極まって晩方にあるものではあるまいと云えば、「金を借《かり》る相談を朝っぱらからする奴があるものか」と云う。なぜこれまでは今のようでなかったかと云えば、「それは商売を手広に遣り出さない前の事だ」と云う。末造は池の端へ越すまでは、何もかも一人でしていたのに、今は住まいの近所に事務所めいたものが置いてある外に、竜泉寺町《りゅうせんじまち》にまで出張所とでも云うような家があって、学生が所謂《いわゆる》金策のために、遠道を踏まなくても済むようにしてある。根津で金のいるものは事務所に駈け附ける。吉原でいるものは出張所に駈け附ける。後《のち》には吉原の西の宮と云う引手茶屋と、末造の出張所とは気脈を通じていて、出張所で承知していれば、金がなくても遊ばれるようになっていた。宛然《えんぜん》たる遊蕩《ゆうとう》の兵站《へいたん》が編成せられていたのである。
末造夫婦は新《あらた》に不調和の階級を進める程の衝突をせずに、一月ばかりも暮していた。つまりその間《あいだ》は末造の詭弁《きべん》が功を奏していたのである。然るに或る日意外な辺から破綻《はたん》が生じた。
さいわい夫が内にいるので、朝の涼しいうちに買物をして来ると云って、お常は女中を連れて広小路まで行った。その帰りに仲町を通り掛かると、背後《うしろ》から女中が袂《たもと》をそっと引く。「なんだい」と叱るように云って、女中の顔を見る。女中は黙って左側の店に立っている女を指さす。お常はしぶしぶその方を見て、覚えず足を駐《と》める。そのとたんに女は振り返る。お常とその女とは顔を見合せたのである。
お常は最初芸者かと思った。若し芸者なら、数寄屋町《すきやまち》にこの女程どこもかしこも揃《そろ》って美しいのは、外にあるまいと、せわしい暇に判断した。しかし次の瞬間には、この女が芸者の持っている何物かを持っていないのに気が附いた。その何物かはお常には名状することは出来ない。それを説明しようとすれば、態度の誇張とでも云おうか。芸者は着物を好《い》い恰好に着る。その好い恰好は必ず幾分か誇張せられる。誇張せられるから、おとなしいと云う所が失われる。お常の目に何物かが無いと感ぜられたのは、この誇張である。
店の前の女は、傍を通り過ぎる誰やらが足を駐めたのを、殆ど意識せずに感じて、振り返って見たが、その通り過ぎる人の上に、なんの注意すべき点をも見出さなかったので、蝙蝠傘を少し内廻転をさせた膝《ひざ》の間に寄せ掛けて、帯の間から出して持っていた、小さい蝦蟇口《がまぐち》の中を、項《うなじ》を屈《かが》めて覗《のぞ》き込んだ。小さい銀貨を捜しているのである。
店は仲町の南側の「たしがらや」であった。「たしがらや倒《さか》さに読めばやらかした」と、何者かの言い出した、珍らしい屋号のこの店には、金字を印刷した、赤い紙袋に入れた、歯磨を売っていた。まだ錬歯磨なんぞの舶来していなかったその頃、上等のざら附かない製品は、牡丹《ぼたん》の香《におい》のする、岸田の花王散と、このたしがらやの歯磨とであった。店の前の女は別人でない。朝早く父親の所を訪ねた帰りに、歯磨を買いに寄ったお玉であった。
お常が四五歩通り過ぎた時、女中が※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささや》いた。「奥さん。あれですよ。無縁坂の女は」
黙って頷《うなず》いたお常には、この詞が格別の効果を与えないので、女中は意外に思った。あの女は芸者ではないと思うと同時に、お常は本能的に無縁坂の女だと云うことを暁《さと》っていたのである。それには女中が只美しい女がいると云うだけで、袖を引いて教えはしない筈だと云う判断も手伝っているが、今一つ意外な事が影響している。それはお玉が膝の所に寄せ掛
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