特別な仔細《しさい》がありそうである。
「おい、お前何か考えているね」と、末造が烟管《きせる》に烟草を詰めつつ云った。
わざわざ片附けてあるような箱火鉢の抽斗《ひきだし》を、半分抜いて、捜すものもないのに、中を見込んでいたお玉は、「いいえ」と云って、大きい目を末造の顔に注いだ。昔話の神秘は知らず、余り大した秘密なんぞをしまって置かれそうな目ではない。
末造は覚えず蹙《しか》めていた顔を、又覚えず晴やかにせずにはいられなかった。「いいえじゃあないぜ。困っちまう。どうしよう。どうしようと、ちゃんと顔に書いてあらあ」
お玉の顔はすぐに真っ赤になった。そして姑《しばら》く黙っている。どう言おうかと考える。細かい器械の運転が透き通って見えるようである。「あの、父の所へ疾《と》うから行って見よう、行って見ようと思っていながら、もう随分長くなりましたもんですから」
細かい器械がどう動くかは見えても、何をするかは見えない。常に自分より大きい、強い物の迫害を避けなくてはいられぬ虫は、mimicry《ミミクリイ》 を持っている。女は嘘を衝く。
末造は顔で笑って、叱るような物の言様《いいよう》をした。「なんだ。つい鼻の先の池の端に越して来ているのに、まだ行って見ないでいたのか。向いの岩崎の邸《やしき》の事なんぞを思えば、同じ内にいるようなものだぜ。今からだって、行こうと思えば行けるのだが、まあ、あすの朝にするが好《い》い」
お玉は火箸で灰をいじりながら、偸《ぬす》むように末造の顔を見ている。「でもいろいろと思って見ますものですから」
「笑談《じょうだん》じゃないぜ。その位な事を、どう思って見ようもないじゃないか。いつまでねんねえでいるのだい」こん度は声も優しかった。
この話はこれだけで済んだ。とうとうしまいには末造が、そんなにおっくうがるようなら、自分が朝出掛けて来て、四五町の道を連れて行って遣ろうかなどとも云った。
お玉はこの頃種々に思って見た。檀那に逢って、頼もしげな、気の利いた、優しい様子を目の前に見て、この人がどうしてそんな、厭な商売をするのかと、不思議に思ったり、なんとか話をして、堅気な商売になって貰うことは出来まいかと、無理な事を考えたりしていた。しかしまだ厭な人だとは少しも思わなかった。
末造はお玉の心の底に、何か隠している物のあるのを微《かす》かに認めて、探りを入れて見たが、子供らしい、なんでもない事だと云うのであった。しかし十一時過ぎにこの家を出て、無縁坂をぶらぶら降《お》りながら考えて見れば、どうもまだその奥に何物かが潜んでいそうである。末造の物馴れた、鋭い観察は、この何物かをまるで見遁《みのが》してはおらぬのである。少くも或る気まずい感情を起させるような事を、誰《たれ》かがお玉に話したのではあるまいかとまで、末造は推測を逞《たくましゅ》うして見た。それでも誰が何を言ったかは、とうとう分からずにしまった。
拾壱《じゅういち》
翌朝お玉が、池の端の父親の家に来た時は、父親は丁度|朝飯《あさはん》を食べてしまった所であった。化粧の手間を取らないお玉が、ちと早過ぎはせぬかと思いながら、急いで来たのだが、早起の老人はもう門口《かどぐち》を綺麗に掃いて、打水をして、それから手足を洗って、新しい畳の上に上がって、いつもの寂しい食事を済ませた所であった。
二三軒隔てては、近頃待合も出来ていて、夕方になれば騒がしい時があるが、両隣は同じように格子戸の締まった家で、殊に朝のうちは、あたりがひっそりしている。肱掛窓《ひじかけまど》から外を見れば、高野槙の枝の間から、爽《さわや》かな朝風に、微かに揺れている柳の糸と、その向うの池一面に茂っている蓮《はす》の葉とが見える。そしてその緑の中に、所所に薄い紅《べに》を点じたように、今朝《けさ》開いた花も見えている。北向の家で寒くはあるまいかと云う話はあったが、夏は求めても住みたい所である。
お玉は物を弁《わきま》えるようになってから、若し身に為合《しあわ》せが向いて来たら、お父っさんをああもして上げたい、こうもして上げたいと、色々に思っても見たが、今目の前に見るように、こんな家にこうして住まわせて上げれば、平生の願《ねがい》が※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》ったのだと云っても好《い》いと、嬉しく思わずにはいられなかった。しかしその嬉しさには一滴の苦い物が交っている。それがなくて、けさお父っさんに逢うのだったら、どんなにか嬉しかろうと、つくづく世の中の儘《まま》ならぬを、じれったくも思うのである。
箸を置いて、湯呑みに注《つ》いだ茶を飲んでいた爺いさんは、まだついぞ人のおとずれたことのない門《かど》の戸の開《あ》いた時、はっと思って、
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