うのでないことは勿論であるが、身を任せることになっている末造が高利貸であったと分かって、その末造を憎むとか、そう云う男に身を任せているのが悔やしいとか、悲しいとか云うのでもない。お玉も高利貸は厭なもの、こわいもの、世間の人に嫌われるものとは、仄《ほの》かに聞き知っているが、父親が質屋の金しか借りたことがなく、それも借りたい金高《きんだか》を番頭が因業で貸してくれぬことがあっても、父親は只困ると云うだけで番頭を無理だと云って怨んだこともない位だから、子供が鬼がこわい、お廻りさんがこわいのと同じように、高利貸と云う、こわいものの存在《ぞんざい》を教えられていても、別に痛切な感じは持っていない。そんなら何が悔やしいのだろう。
 一体お玉の持っている悔やしいと云う概念には、世を怨み人を恨む意味が甚だ薄い。強いて何物をか怨む意味があるとするなら、それは我身の運命を怨むのだとでも云おうか。自分が何の悪い事もしていぬのに、余所《よそ》から迫害を受けなくてはならぬようになる。それを苦痛として感ずる。悔やしいとはこの苦痛を斥《さ》すのである。自分が人に騙《だま》されて棄てられたと思った時、お玉は始て悔やしいと云った。それからたったこの間妾と云うものにならなくてはならぬ事になった時、又悔やしいを繰り返した。今はそれが只妾と云うだけでなくて、人の嫌う高利貸の妾でさえあったと知って、きのうきょう「時間」の歯で咬《か》まれて角《かど》が※[#「元+りっとう」、第3水準1−14−60]《つぶ》れ、「あきらめ」の水で洗われて色の褪《さ》めた「悔やしさ」が、再びはっきりした輪廓《りんかく》、強い色彩をして、お玉の心の目に現われた。お玉が胸に鬱結《うっけつ》している物の本体は、強いて条理を立てて見れば先ずこんな物ででもあろうか。
 暫《しばら》くするとお玉は起って押入を開けて、象皮賽《ぞうひまがい》の鞄《かばん》から、自分で縫った白金巾《しろかなきん》の前掛を出して腰に結んで、深い溜息《ためいき》を衝《つ》いて台所へ出た。同じ前掛でも、絹のはこの女の為めに、一種の晴着になっていて、台所へ出る時には掛けぬことにしてある。かれは湯帷子《ゆかた》にさえ領垢《えりあか》の附くのを厭《いと》って、鬢や髱《たぼ》の障る襟の所へ、手拭《てぬぐい》を折り掛けて置く位である。
 お玉はこの時もう余程落ち着いていた。あきらめはこの女の最も多く経験している心的作用で、かれの精神はこの方角へなら、油をさした機関のように、滑《なめら》かに働く習慣になっている。

     拾《じゅう》

 或る日の晩の事であった。末造が来て箱火鉢の向うに据わった。始ての晩からお玉はいつも末造の這入《はい》って来るのを見ると、座布団を出して、箱火鉢の向うに敷く。末造はその上に胡坐《あぐら》を掻いて、烟草《たばこ》を飲みながら世間話をする。お玉は手持不沙汰なように、不断自分のいる所にいて、火鉢の縁《へり》を撫《な》でたり、火箸《ひばし》をいじったりしながら、恥かしげに、詞数《ことばかず》少く受答《うけこたえ》をしている。その様子が火鉢から離れて据わらせたら、身の置所に困りはすまいかと思われるようである。火鉢と云う胸壁《むなかべ》に拠《よ》って、僅かに敵に当っていると云っても好い位である。暫く話しているうちに、お玉はふと調子附いて長い話をする。それが大抵これまで父親と二人で暮していた、何年かの間に閲《けみ》して来た、小さい喜怒哀楽に過ぎない。末造はその話の内容を聴くよりは、籠《かご》に飼ってある鈴虫の鳴くのをでも聞くように、可哀らしい囀《さえずり》の声を聞いて、覚えず微笑む。その時お玉はふいと自分の饒舌《しゃべ》っているのに気が附いて、顔を赤くして、急に話を端折《はしょ》って、元の詞数の少い対話に戻ってしまう。その総ての言語挙動が、いかにも無邪気で、或る向きには頗《すこぶ》る鋭利な観察をすることに慣れている末造の目で見れば、澄み切った水盤の水を見るように、隅々まで隠れる所もなく見渡すことが出来る。こう云う差向いの味は、末造がためには、手足を働かせた跡で、加減の好《い》い湯に這入って、じっとして温《あたた》まっているように愉快である。そしてこの味を味うのが、末造がためには全く新しい経験に属するので、末造はこの家に通い始めてから、猛獣が人に馴れるように、意識せずに一種の culture《キュルチュウル》 を受けているのである。
 それに三四日立った頃から、自分が例の通りに箱火鉢の向うに胡坐を掻くと、お玉はこれと云う用もないに立ち働いたり何かして、とかく落ち着かぬようになったのに、末造は段々気が附いて来た。はにかんで目を見合せぬようにしたり、返事を手間取らせたりすることは最初にもあったが、今晩なんぞの素振には何か
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