由のないように、小女《こおんな》の一人位附けて置こうと考えていた。そうするには、今まで住まった鳥越の車屋と隣合せになっている、見苦しい家に親を置かなくても好《い》い。同じ事なら、もっと近い所へ越させたいと云うことになった。丁度見合いに娘ばかり呼ぶ筈の所へ、親爺が来るようになったと同じわけで、末造は妾宅《しょうたく》の支度をしてお玉を迎えさえすれば好いと思っていたのに、実際は親子二人の引越をさせなくてはならぬ事になったのである。
勿論《もちろん》お玉は親の引越は自分が勝手にさせるのだから、一切檀那に迷惑を掛けないようにしたいと云っている。しかし話を聞《きか》せられて見れば、末造もまるで知らぬ顔をしていることは出来ない。見合いをして一層気に入ったお玉に、例の気前を見せて遣りたい心持が手伝って、とうとうお玉が無縁坂へ越すと同時に、兼て末造が見て置いた、今一軒の池の端の家へ親爺も越すということになった。こう相談相手になって見れば、幾らお玉が自分の貰う給金の内で万事済ましたいと云ったと云って、見す見す苦しい事をするのを知らぬ顔は出来ず、何かにつけて物入がある。それを末造が平気で出すのに、世話を焼いている婆あさんの目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ることが度々であった。
両方の引越騒ぎが片附いたのは、七月の中頃でもあったか。ういういしい詞遣や立居振舞が、ひどく気に入ったと見えて、金貸業の方で、あらゆる峻烈《しゅんれつ》な性分を働かせている末造が、お玉に対しては、柔和な手段の限を尽して、毎晩のように無縁坂へ通って来て、お玉の機嫌を取っていた。ここにはちょっと歴史家の好く云う、英雄の半面と云ったような趣がある。
末造は一夜も泊って行かない。しかし毎晩のように来る。例の婆あさんが世話をして、梅と云う、十三になる小女を一人置いて、台所で子供の飯事《ままごと》のような真似をさせているだけなので、お玉は次第に話相手のない退屈を感じて、夕方になれば、早く檀那が来てくれれば好《い》いと待つ心になって、それに気が附いて、自分で自分を笑うのである。鳥越にいた時も、お父っさんが商売に出た跡で、お玉は留守に独りで、内職をしていたが、もうこれだけ為上《しあ》げれば幾らになる、そうしたらお父っさんが帰って驚くだろうと励んでいたので、近所の娘達と親しくしないお玉も、退屈だと思ったことはなかったのである。それが生活の上の苦労がなくなると同時に、始て退屈と云うことを知った。
それでもお玉の退屈は、夕方になると、檀那が来て慰めてくれるから、まだ好い。可笑《おか》しいのは、池の端へ越した爺いさんの身の上で、これも渡世に追われていたのが、急に楽になり過ぎて、自分でも狐《きつね》に撮《つま》まれたようだと思っている。そして小さいランプの下《した》で、これまでお玉と世間話をして過した水入らずの晩が、過ぎ去った、美しい夢のように恋しくてならない。そしてお玉が尋ねて来そうなものだと、絶えずそればかり待っている。ところがもう大分《だいぶ》日が立ったのに、お玉は一度も来ない。
最初一日二日の間、爺いさんは綺麗《きれい》な家に這入った嬉しさに、田舎出の女中には、水汲《みずくみ》や飯炊《めしたき》だけさせて、自分で片附けたり、掃除をしたりして、ちょいちょい足らぬ物のあるのを思い出しては、女中を仲町へ走らせて、買って来させた。それから夕方になると、女中が台所でことこと音をさせているのを聞きながら、肘掛窓《ひじかけまど》の外の高野槙《こうやまき》の植えてある所に打水をして、煙草を喫《の》みながら、上野の山で鴉《からす》が騒ぎ出して、中島の弁天の森や、蓮《はす》の花の咲いた池の上に、次第に夕靄《ゆうもや》が漂って来るのを見ていた。爺いさんは難有《ありがた》い、結構だとは思っていた。しかしその時から、なんだか物足らぬような心持がし始めた。それは赤子の時から、自分一人の手で育てて、殆ど物を言わなくても、互に意志を通じ得られるようになっていたお玉、何事につけても優しくしてくれたお玉、外から帰って来れば待っていてくれたお玉がいぬからである。窓に据わっていて、池の景色を見る。往来の人を見る。今跳ねたのは大きな鯉であった。今通った西洋婦人の帽子には、鳥が一羽丸で附けてあった。その度毎に、「お玉あれを見い」と云いたい。それがいないのが物足らぬのである。
三日四日となった頃には、次第に気が苛々して来て、女中の傍へ来て何かするのが気に障る。もう何十年か奉公人を使ったことがないのに、原来《がんらい》優しい性分だから、小言は言わない。只女中のする事が一々自分の意志に合わぬので、不平でならない。起居《たちい》のおとなしい、何をしても物に柔《やわらか》に当るお玉と比べて見られるのだから、田舎か
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