した。そして二人を座鋪へ入れて置いて、世話をする婆あさんを片蔭へ呼んで、紙に包んだ物を手に握らせて、何やら※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]いた。婆あさんはお歯黒を剥《は》がした痕《あと》のきたない歯を見せて、恭しいような、人を馬鹿にしたような笑いようをして、頭を二三遍屈めて、そのまま跡へ引き返して行った。
座鋪に帰って、親子のものの遠慮して這入口に一塊《ひとかたまり》になっているのを見て、末造は愛想《あいそ》好く席を進めさせて、待っていた女中に、料理の注文をした。間もなく「おとし」を添えた酒が出たので、先《ま》ず爺いさんに杯《さかずき》を侑《すす》めて、物を言って見ると、元は相応な暮しをしただけあって、遽《にわか》に身なりを拵《こしら》えて座敷へ通った人のようではなかった。
最初は爺いさんを邪魔にして、苛々《いらいら》したような心持になっていた末造も、次第に感情を融和させられて、全く預想《よそう》しなかった、しんみりした話をすることになった。そして末造は自分の持っている限《かぎり》のあらゆる善良な性質を表へ出すことを努めながら、心の奥には、おとなしい気立の、お玉に信頼する念を起さしめるには、この上もない、適当な機会が、偶然に生じて来たのを喜んだ。
料理が運ばれた頃には、一座はなんとなく一家のものが遊山《ゆさん》にでも出て、料理屋に立ち寄ったかと思われるような様子になっていた。平生妻子に対しては、tyran《チラン》 のような振舞をしているので、妻からは或るときは反抗を以て、或るときは屈従を以て遇せられている末造は、女中の立った跡で、恥かしさに赤くした顔に、つつましやかな微笑を湛《たた》えて酌をするお玉を見て、これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた。しかし末造はこの席で幻のように浮かんだ幸福の影を、無意識に直覚しつつも、なぜ自分の家庭生活にこう云う味が出ないかと反省したり、こう云う余所行《よそゆき》の感情を不断に維持するには、どれだけの要約がいるか、その要約が自分や妻に充たされるものか、充たされないものかと商量したりする程の、緻密《ちみつ》な思慮は持っていなかった。
突然塀の外に、かちかちと拍子木を打つ音がした。続いて「へい、何か一枚|御贔屓様《ごひいきさま》を」と云った。二階にしていた三味線の音《ね》が止まって、女中が手摩《てすり》に掴《つか》まって何か言っている。下では、「へい、さようなら成田屋の河内山《こうちやま》と音羽屋《おとわや》の直侍《なおざむらい》を一つ、最初は河内山」と云って、声色《こわいろ》を使いはじめた。
銚子《ちょうし》を換えに来ていた女中が、「おや、今晩のは本当のでございます」と云った。
末造には分からなかった。「本当のだの、嘘《うそ》のだのと云って、色々ありますかい」
「いえ、近頃は大学の学生さんが遣ってお廻りになります」
「失《や》っ張《ぱり》鳴物入で」
「ええ。支度から何からそっくりでございます。でもお声で分かります」
「そんなら極《き》まった人ですね」
「ええ。お一人しか、なさる方はございません」女中は笑っている。
「姉《ね》えさん、知っているのだね」
「こちらへもちょいちょいいらっしゃった方だもんですから」
爺いさんが傍《そば》から云った。「学生さんにも、御器用な方があるものですね」
女中は黙っていた。
末造が妙に笑った。「どうせそんなのは、学校では出来ない学生なのですよ」こう云って、心の中《うち》には自分の所へ、いつも来る学生共の事を考えている。中には随分職人の真似をして、小店と云う所を冷かすのが面白いなどと云って、不断も職人のような詞遣《ことばづかい》をしている人がある。しかしまさか真面目に声色を遣って歩く人があろうとは、末造も思っていなかったのである。
一座の話を黙って聞いているお玉を、末造がちょっと見て云った。
「お玉さんは誰が贔屓ですか」
「わたくし贔屓なんかございませんの」
爺いさんが詞を添えた。「芝居へ一向まいりませんのですから。柳盛座がじき近所なので、町内の娘さん達がみな覗《のぞ》きにまいりましても、お玉はちっともまいりません。好きな娘さん達は、あのどんちゃんどんちゃんが聞えては内にじっとしてはいられませんそうで」
爺いさんの話は、つい娘自慢になりたがるのである。
捌《はち》
話が極まって、お玉は無縁坂へ越して来ることになった。
ところが、末造がひどく簡単に考えていた、この引越《ひきこし》にも多少の面倒が附き纏った。それはお玉が父親をなるたけ近い所に置いて、ちょいちょい尋ねて行って、気を附けて上げるようにしたいと云い出したからである。最初からお玉は、自分が貰う給金の大部分を割いて親に送って、もう六十を越している親に不自
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