ら出たばかりの女中こそ好《い》い迷惑である。とうとう四日目の朝飯の給事《きゅうじ》をさせている時、汁椀の中へ栂指《おやゆび》を突っ込んだのを見て、「もう給仕はしなくても好いから、あっちへ行っていておくれ」と云ってしまった。
 食事をしまって、窓から外を見ていると、空は曇っていても、雨の降りそうな様子もなく、却《かえ》って晴れた日よりは暑くなくて好さそうなので、気を晴そうと思って、外へ出た。それでも若《も》し留守にお玉が来はすまいかと気遣って、我家の門口《かどぐち》を折々振り返って見つつ、池の傍《そば》を歩いている。そのうち茅町《かやちょう》と七軒町《しちけんちょう》との間から、無縁坂の方へ行く筋に、小さい橋の掛っている処《ところ》に来た。ちょっと娘の内へ行って見ようかと思ったが、なんだか改まったような気がして、我ながら不思議な遠慮がある。これが女親であったら、こんな隔てはどんな場合にも出来まいのに、不思議だ、不思議だと思いながら、橋を渡らずに、矢張池の傍を歩いている。ふと心附くと、丁度末造の家が溝《どぶ》の向うにある。これは口入《くちいれ》の婆あさんが、こん度越して来た家の窓から、指さしをして教えてくれたのである。見れば、なる程立派な構《かまえ》で、高い土塀の外廻に、殺竹《そぎだけ》が斜《ななめ》に打ち附けてある。福地さんと云う、えらい学者の家だと聞いた、隣の方は、広いことは広いが、建物も古く、こっちの家に比べると、けばけばしい所と厳《いか》めしげな所とがない。暫く立ち留まって、昼も厳重に締め切ってある、白木造の裏門の扉を見ていたが、あの内へ這入って見たいと思う心は起らなかった。しかし何をどう思うでもなく、一種のはかない、寂しい感じに襲われて、暫く茫然《ぼうぜん》としていた。詞にあらわして言ったら、落ちぶれて娘を妾《めかけ》に出した親の感じとでも云うより外あるまい。
 とうとう一週間立っても、まだ娘は来なかった。恋しい、恋しいと思う念が、内攻するように奥深く潜んで、あいつ楽な身の上になって、親の事を忘れたのではあるまいかと云う疑《うたがい》が頭を擡《もた》げて来る。この疑は仮に故意に起して見て、それを弄《もてあそ》んでいるとでも云うべき、極めて淡いもので、疑いは疑いながら、どうも娘を憎く思われない。丁度人に対して物を言う時に用いる反語のように、いっそ娘が憎くなったら好かろうと、心の上辺で思って見るに過ぎない。
 それでも爺いさんはこの頃になって、こんな事を思うことがある。内にばかりいると、いろんな事を思ってならないから、己《おれ》はこれから外へ出るが、跡へ娘が来て、己に逢われないのを残念がるだろう。残念がらないにしたところが、切角来たのが無駄になったとだけは思うに違いない。その位な事は思わせて遣っても好《い》い。こんな事を思って出て行くようになったのである。
 上野公園に行って、丁度|日蔭《ひかげ》になっている、ろは台を尋ねて腰を休めて、公園を通り抜ける、母衣《ほろ》を掛けた人力車を見ながら、今頃留守へ娘が来て、まごまごしていはしないかと想像する。この時の感じは、好い気味だと思って見たいと云う、自分で自分を験《ため》して見るような感じである。この頃は夜も吹抜亭《ふきぬきてい》へ、円朝の話や、駒之助《こまのすけ》の義太夫《ぎだゆう》を聞きに行くことがある。寄席にいても、矢張娘が留守に来ているだろうかと云う想像をする。そうかと思うと又ふいと娘がこの中に来ていはせぬかと思って、銀杏返しに結《い》っている、若い女を選《よ》り出すようにして見ることなどがある。一度なんぞは、中入《なかいり》が済んだ頃、その時代にまだ珍らしかった、パナマ帽を目深に被《かぶ》った、湯帷子掛《ゆかたがけ》の男に連れられて、背後《うしろ》の二階へ来て、手摩に攫《つか》まって据わりしなに、下の客を見卸した、銀杏返しの女を、一刹那《いっせつな》[#「一刹那」は底本では「一殺那」]の間お玉だと思った事がある。好く見れば、お玉よりは顔が円くて背が低い。それにパナマ帽の男は、その女ばかりではなく、背後《うしろ》にまだ三人ばかりの島田やら桃割《ももわれ》やらを連れていた。皆芸者やお酌であった。爺いさんの傍《そば》にいた書生が、「や、吾曹《ごそう》先生が来た」と云った。寄席がはねて帰る時に見ると、赤く「ふきぬき亭」と斜《ななめ》に書いた、大きい柄の長い提灯《ちょうちん》を一人の女が持って、芸者やお酌がぞろぞろ附いて、パナマ帽の男を送って行く。爺いさんは自分の内の前まで、この一行と跡になったり、先になったりして帰った。

     玖《く》

 お玉も小さい時から別れていたことのない父親が、どんな暮らしをしているか、往《い》って見たいとは思っている。しかし檀那《だんな》が毎日の
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