内のお方にお恥かしくて、このままにしてはいられないと云って、西鳥越《にしとりごえ》の方へ越して行きましたよ。それでも子供衆のお得意のある所でなくては、元の商売が出来ないと云うので、秋葉の原へは出ているそうです。屋台も一度売ってしまって、佐久間町《さくまちょう》の古道具屋の店に出ていたのを、わけを話して取り返したと云うことです。そんな事やら、引越やらで、随分掛かった筈ですから、さぞ困っていますでしょう。おまわりさんが国の女房や子供を干し上げて置いて、大きな顔をして酒を飲んで、上戸《じょうご》でもない爺いさんに相手をさせていた間、まあ、一寸楽隠居になった夢を見たようなものですな」と、頭をつるりと撫《な》でて云った。それから後《のち》、末造は飴屋のお玉さんの事を忘れていたのに、金が出来て段々自由が利くようになったので、ふいと又思い出したのである。
今では世間の広くなっている末造の事だから、手を廻して西鳥越の方を尋ねさせて見ると、柳盛座《りゅうせいざ》の裏の車屋の隣に、飴細工屋の爺いさんのいるのを突き留めた。お玉も娘でいた。そこで或る大きい商人が妾《めかけ》に欲しいと云うがどうだと、人を以《もっ》て掛け合うと、最初は妾になるのはいやだと云っていたが、おとなしい女だけに、とうとう親の為めだと云うので、松源で檀那《だんな》にお目見えをすると云う処まで話が運んだ。
伍《ご》
金の事より外、何一つ考えたことのない末造も、お玉のありかを突き留めるや否や、まだ先方が承知するかせぬか知れぬうちに、自分で近所の借家を捜して歩いた。何軒も見た中《うち》で、末造の気に入った店《たな》が二軒あった。一つは同じ池の端で、自分の住まっている福地源一郎の邸宅の隣と、その頃名高かった蕎麦屋《そばや》の蓮玉庵《れんぎょくあん》との真ん中位の処で、池の西南の隅から少し蓮玉庵の方へ寄った、往来から少し引っ込めて立てた家である。四つ目垣の内に、高野槙《こうやまき》が一本とちゃぼ檜葉《ひば》が二三本と植えてあって、植木の間から、竹格子を打った肘懸窓《ひじかけまど》が見えている。貸家の札が張ってあるので這入って見ると、まだ人が住んでいて、五十ばかりの婆あさんが案内をして中を見せてくれた。その婆あさんが問わずがたりに云うには、主人は中国辺の或る大名の家老であったが、廃藩になってから、小使取りに大蔵省の属官を勤めている。もう六十幾つとかになるが、綺麗好きで、東京中を歩いて、新築の借家を捜して借りるが、少し古びて来ると、すぐ引き越す。勿論子供は別になってしまってから久しくなるので、家を荒すような事はないが、どうせ住んでいるうちに古くなるので、障子の張替もしなくてはならず、畳の表も換えなくてはならない。そんな面倒をなるたけせぬようにして、さっさと引き越すのだと云うのである。婆あさんはそれが厭でならぬので、知らぬ人にも夫の壁訴訟をする。「この内なんぞもまだこんなに綺麗なのに、もう越すと申すのでございますよ」と云って、内じゅうを細かに見せてくれた。どこからどこまで、可なり綺麗に掃除がしてある。末造は一寸|好《い》いと思って、敷金と家賃と差配の名とを、手帳に書き留めて出た。
今一つは無縁坂の中程にある小家《こいえ》である。それは札も何も出ていなかったが、売りに出たのを聞いて見に行った。持主は湯島切通しの質屋で、そこの隠居がついこの間まで住んでいたのが亡くなったので、、婆あさんは本店《ほんてん》へ引き取られたと云うのである。隣が裁縫の師匠をしているので、少し騒がしいが、わざわざ隠居所に木なんぞを選んで立てたものゆえ、どことなく住心地が好さそうである。入口の格子戸から、花崗石《みかげいし》を塗り込めた敲《たた》きの庭まで、小ざっぱりと奥床しげに出来ている。
末造は一晩床の上に寝転んで、二つの中《うち》どれにしようかと考えた。傍には女房が子供を寐《ね》かそうと思って、自分も一しょに寐入ってしまって、大きな口を開《あ》いて、女らしくない鼾《いびき》をしている。亭主が夜、貸金の利廻しを考えて、いつまでも眠らずにいるのは常の事なので、女房は何時《いつ》まで亭主が目を開いていようが、少しも気になんぞはせぬのである。末造は腹のうちで可笑《おか》しくてたまらない。考えつつ女房の顔を見て、こう思った。「まあ、同じ女でもこんな面《つら》をしているのもある。あのお玉はだいぶ久しく見ないが、あの時はまだ子供上がりであったのに、おとなしい中に意気な処のある、震い附きたいような顔をしていた。さぞこの頃は女振を上げているだろうな。顔を見るのが楽みだな。かかあ奴《め》。平気で寐てけつかる。己だって、いつも金のことばかり考えているのだと思うと、大違いだぞ。おや。もう蚊が出やがった。下谷はこれだから厭だ。
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