造が或る女を思い出した。それは自分が練塀町《ねりべいちょう》の裏からせまい露地を抜けて大学へ通勤する時、折々見たことのある女である。どぶ板のいつもこわれているあたりに、年中戸が半分締めてある、薄暗い家があって、夜その前を通って見れば、簷下《のきした》に車の附いた屋台が挽《ひ》き込んであるので、そうでなくても狭い露地を、体を斜《ななめ》にして通らなくてはならない。最初末造の注意を惹《ひ》いたのは、この家に稽古《けいこ》三味線の音《ね》のすることであった。それからその三味線の音の主が、十六七の可哀《かわい》らしい娘だと云うことを知った。貧しそうな家には似ず、この娘がいつも身綺麗にしていて、着物も小ざっぱりとした物を着ていた。戸口にいても、人が通るとすぐ薄暗い家の中へ引っ込んでしまう。何事にも注意深い性質の末造は、わざわざ探るともなしに、この娘が玉《たま》と云う子で、母親がなくて、親爺《おやじ》と二人暮らしでいると云う事、その親爺は秋葉《あきは》の原に飴細工《あめざいく》の床店《とこみせ》を出していると云う事などを知った。そのうちにこの裏店《うらだな》に革命的変動が起った。例の簷下に引き入れてあった屋台が、夜通って見てもなくなった。いつもひっそりしていた家とその周囲とへ、当時の流行語で言うと、開化と云うものが襲ってでも来たのか、半分こわれて、半分はね返っていたどぶ板が張り替えられたり、入口の模様替《もようがえ》が出来て、新しい格子戸が立てられたりした。或る時入口に靴の脱いであるのを見た。それから間もなく、この家の戸口に新しい標札が打たれたのを見ると、巡査何の何某《なにがし》と書いてあった。末造は松永町から、仲徒町《なかおかちまち》へ掛けて、色々な買物をして廻る間に、又探るともなしに、飴屋の爺《じ》いさんの内へ壻入《むこいり》のあった事を慥めた。標札にあった巡査がその壻なのである。お玉を目の球よりも大切にしていた爺いさんは、こわい顔のおまわりさんに娘を渡すのを、天狗《てんぐ》にでも撈《さら》われるように思い、その壻殿が自分の内へ這入り込んで来るのを、この上もなく窮屈に思って、平生心安くする誰彼《たれかれ》に相談したが、一人もことわってしまえとはっきり云ってくれるものがなかった。それ見た事か。こっちとらが宜《い》い所へ世話をしようと云うのに、一人娘だから出されぬのなんのと、面倒な事を言っていて、とうとうそんなことわり憎い壻さんが来るようになったと云うものもある。お前方の方で厭《いや》なのなら、遠い所へでも越すより外あるまいが、相手がおまわりさんで見ると、すぐにどこへ越したと云うことを調べて、その先へ掛け合うだろうから、どうも逃げ果《おお》せることは出来まいと、威《おど》すように云うものもある。中にも一番物分かりの好いと云う評判のお上さんの話がこうだ。「あの子はあんな好《い》い器量で、お師匠さんも芸が出来そうだと云って褒めてお出《いで》だから、早く芸者の下地子《したじっこ》にお出しと、わたしがそう云ったじゃありませんか。一人もののおまわりさんと来た日には、一軒一軒見て廻るのだから、子柄の好いのを内に置くと、いやおうなしに連れて行ってしまいなさる。どうもそう云う方に見込まれたのは、不運だとあきらめるより外、為方《しかた》がないね」と云うような事を言ったそうだ。末造がこの噂を聞いてから、やっと三月ばかりも立った頃であっただろう。飴細工屋の爺いさんの家に、或る朝戸が締まっていて、戸に「貸屋差配松永町西のはずれにあり」と書いて張ってあった。そこで又近所の噂を、買物の序《ついで》に聞いて見ると、おまわりさんには国に女房も子供もあったので、それが出し抜けに尋ねて来て、大騒ぎをして、お玉は井戸へ身を投げると云って飛び出したのを、立聞をしていた隣の上さんがようよう止めたと云うことであった。おまわりさんが壻に来ると云う時、爺いさんは色々の人に相談したが、その相談相手の中《うち》には一人も爺いさんの法律顧問になってくれるものがなかったので、爺いさんは戸籍がどうなっているやら、どんな届がしてあるやら一切|無頓着《むとんじゃく》でいたのである。巡査が髭《ひげ》を拈《ひね》って、手続は万事|己《おれ》がするから好いと云うのを、少しも疑わなかったのである。その頃松永町の北角《きたずみ》と云う雑貨店に、色の白い円顔で腮《あご》の短い娘がいて、学生は「頤《あご》なし」と云っていた。この娘が末造にこう云った。「本当にたあちゃんは可哀そうでございますわねえ。正直な子だもんですから、全くのお壻さんだと思っていたのに、おまわりさんの方では、下宿したような積《つもり》になっていたと云うのですもの」と云った。坊主頭の北角の親爺が傍《そば》から口を出した。「爺いさんも気の毒ですよ。町
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