それからは岡田は極まって窓の女に礼をして通る。
参《さん》
岡田は虞初新誌《ぐしょしんし》が好きで、中にも大鉄椎伝《だいてっついでん》は全文を諳誦《あんしょう》することが出来る程であった。それで余程前から武芸がして見たいと云う願望《がんもう》を持っていたが、つい機会が無かったので、何にも手を出さずにいた。近年競漕をし始めてから、熱心になり、仲間に推されて選手になる程の進歩をしたのは、岡田のこの一面の意志が発展したのであった。
同じ虞初新誌の中《うち》に、今一つ岡田の好きな文章がある。それは小青伝であった。その伝に書いてある女、新しい詞で形容すれば、死の天使を閾《しきい》の外に待たせて置いて、徐《しず》かに脂粉の粧《よそおい》を擬《こら》すとでも云うような、美しさを性命にしているあの女が、どんなにか岡田の同情を動かしたであろう。女と云うものは岡田のためには、只美しい物、愛すべき物であって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持していなくてはならぬように感ぜられた。それには平生|香奩体《こうれんたい》の詩を読んだり、sentimental《サンチマンタル》 な、fatalistique《ファタリスチック》 な明清《みんしん》の所謂《いわゆる》才人の文章を読んだりして、知らず識《し》らずの間にその影響を受けていた為めもあるだろう。
岡田は窓の女に会釈をするようになってから余程久しくなっても、その女の身の上を探って見ようともしなかった。無論家の様子や、女の身なりで、囲物《かこいもの》だろうとは察した。しかし別段それを不快にも思わない。名も知らぬが、強いて知ろうともしない。標札を見たら、名が分かるだろうと思ったこともあるが、窓に女のいる時は女に遠慮をする。そうでない時は近処の人や、往来の人の人目を憚《はばか》る。とうとう庇《ひさし》の蔭《かげ》になっている小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにいたのである。
肆《し》
窓の女の種姓《すじょう》は、実は岡田を主人公にしなくてはならぬこの話の事件が過去に属してから聞いたのであるが、都合上ここでざっと話すことにする。
まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。灰色の瓦を漆喰《しっくい》で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて嵌《は》めた窓の明いている、藤堂《とうどう》屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。勿論《もちろん》今はあんな窓を見ようと思ったって、僅《わず》かに丸の内の櫓《やぐら》に残っている位のもので、上野の動物園で獅子《しし》や虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりは※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はる》かにきゃしゃに出来ている。
寄宿舎には小使がいた。それを学生は外使《そとづかい》に使うことが出来た。白木綿の兵古帯《へこおび》に、小倉袴《こくらばかま》を穿《は》いた学生の買物は、大抵極まっている。所謂「羊羹《ようかん》」と「金米糖《こんぺいとう》」とである。羊羹と云うのは焼芋、金米糖と云うのははじけ豆であったと云うことも、文明史上の参考に書き残して置く価値があるかも知れない。小使は一度の使賃として二銭貰うことになっていた。
この小使の一人に末造《すえぞう》と云うのがいた。外《ほか》のは鬚《ひげ》の栗の殻のように伸びた中に、口があんごり開《あ》いているのに、この男はいつも綺麗に剃《そ》った鬚の痕《あと》の青い中に、脣《くちびる》が堅く結ばれていた。小倉服も外のは汚れているに、この男のはさっぱりしていて、どうかすると唐桟《とうざん》か何かを着て前掛をしているのを見ることがあった。
僕にいつ誰《たれ》が始て噂《うわさ》をしたか知らぬが、金がない時は末造が立て替えてくれると云うことを僕は聞いた。勿論五十銭とか一円とかの金である。それが次第に五円貸す十円貸すと云うようになって、借《か》る人に証文を書かせる、書替《かきかえ》をさせる。とうとう一人前の高利貸になった。一体元手はどうしたのか。まさか二銭の使賃を貯蓄したのでもあるまいが、一匹の人間が持っているだけの精力を一時に傾注すると、実際不可能な事はなくなるかも知れない。
とにかく学校が下谷から本郷に遷《うつ》る頃には、もう末造は小使ではなかった。しかしその頃|池《いけ》の端《はた》へ越して来た末造の家へは、無分別な学生の出入《でいり》が絶えなかった。
末造は小使になった時三十を越していたから、貧乏世帯ながら、妻もあれば子もあったのである。それが高利貸で成功して、池の端へ越してから後《のち》に、醜い、口やかましい女房を慊《あきたらな》く思うようになった。
その時末
前へ
次へ
全42ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング