そろそろ蚊屋《かや》を吊《つ》らなくちゃあ、かかあは好《い》いが、子供が食われるだろう」こんな事を思っては、又家の事を考えて見る。どうか、こうか断案に到着したらしく思ったのは、一時過ぎであった。それはこうである。「あの池の端の家は、人は見晴しがあって好いなんぞと云うかも知れないが、見晴しはこの家で沢山だ。家賃が安いが、借家となると何やかや手が掛かる。それになんとなく開け広げたような場所で、人の目に着きそうだ。うっかり窓でもあけていて、子供を連れて仲町へ出掛けるかかあにでも見られようものなら面倒だ。無縁坂の方は陰気なようだが、学生が散歩に出て通る位より外に、人の余り通らない処になっている。一時に金を出して買うのはおっくうなようだが、木道具の好いのが使ってあるわりに安いから、保険でも附けて置けばいつ売ることになっても元値は取れると思って安心していられる。無縁坂にしよう、しよう。己が夕方にでもなって、湯にでも行って、気の利いた支度をして、かかあに好い加減な事を言って、だまくらかして出掛けるのだな。そしてあの格子戸を開けて、ずっと這入って行ったら、どんな塩梅《あんばい》だろう。お玉の奴め。猫か何かを膝《ひざ》にのっけて、さびしがって待っていやがるだろうなあ。勿論お作りをして待っているのだ。着物なんぞはどうでもして遣《や》る。待てよ。馬鹿な銭を使ってはならないぞ。質流れにだって、立派なものがある。女一人に着物や頭の物の贅沢《ぜいたく》をさせるには、世間の奴のするような、馬鹿を尽さなくても好い。隣の福地さんなんぞは、己の内より大きな構《かまえ》をしていて、数寄屋町《すきやまち》の芸者を連れて、池の端をぶら附いて、書生さんを羨《うらや》ましがらせて、好い気になっていなさるが、内証は火の車だ。学者が聞いてあきれらあ。筆尖《ふでさき》で旨《うま》い事をすりゃあ、お店《たな》ものだってお払箱にならあ。おう、そうそう。お玉は三味線が弾けたっけ。爪弾《つめびき》で心意気でも聞かせてくれるようだと好いが、巡査の上さんになったより外に世間を知らずにいるのだから、駄目だろうなあ。お笑いなさるからいやだわとか、なんとか云って、弾けと云っても、なかなか弾かないだろうて。ほんになんに附けても、はにかみやあがるだろう。顔を赤くしてもじもじするに違いない。己が始て行った晩には、どうするだろう」空想は縦横に馳騁《ちへい》して、底止する所を知らない。かれこれするうち、想像が切れ切れになって、白い肌がちらつく。※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささや》きが聞える。末造は好い心持に寐入ってしまった。傍に上さんは相変らず鼾をしている。

     陸《ろく》

 松源の目見えと云うのは、末造が為めには一《いつ》の 〔fe^te〕《フェエト》 であった。一口に爪に火を点《とも》すなどとは云うが、金を溜《た》める人にはいろいろある。細かい所に気を附けて、塵紙《ちりがみ》を二つに切って置いて使ったり、用事を葉書で済ますために、顕微鏡がなくては読まれぬような字を書いたりするのは、どの人にも共通している性質だろうが、それを絶待的に自己の生活の全範囲に及ぼして、真に爪に火を点《とぼ》す人と、どこかに一つ穴を開けて、息を抜くようにしている人とがある。これまで小説に書かれたり、芝居に為組《しく》まれたりしている守銭奴は、殆ど絶待的な奴ばかりのようである。活《い》きた、金を溜める男には、実際そうでないのが多い。吝《けち》な癖に、女には目がないとか、不思議に食奢《くいおごり》だけはするとか云うのがそれである。前にもちょっと話したようであったが、末造は小綺麗な身なりをするのが道楽で、まだ大学の小使をしていた時なんぞは、休日になると、お定《さだ》まりの小倉の筒袖を脱ぎ棄てて、気の利いた商人《あきんど》らしい着物に着換えるのであった。そしてそれを一種の楽みにしていた。学生どもが稀《まれ》に唐桟ずくめの末造に邂逅《かいこう》して、びっくりすることのあったのは、こうしたわけである。そこで末造には、この外にこれと云う道楽がない。芸娼妓なんぞに掛かり合ったこともなければ、料理屋を飲んで歩いたこともない。蓮玉で蕎麦を食う位が既に奮発の一つになっていて、女房や子供は余程前まで、こう云う時連れて行って貰うことが出来なかった。それは女房の身なりを自分の支度に吊り合うようにはしていなかったからである。女房が何かねだると、末造はいつも「馬鹿を言うな、手前なんぞは己とは違う、己は附合があるから、為方なしにしているのだ」と云って撥《は》ね附けたのである。その後《のち》だいぶ金が子を生んでからは、末造も料理屋へ出這入《ではいり》することがあったが、これはおお勢の寄り合う時に限っていて、自分だけが客になって行くのではな
前へ 次へ
全42ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング