ト、それが鋭角に聳《そび》えて、景物に荒涼な趣を添えている。この bitiume《ビチュウム》 色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面《おもて》を、十羽ばかりの雁《がん》が緩やかに往来している。中には停止して動かぬのもある。
「あれまで石が届くか」と、石原が岡田の顔を見て云った。
「届くことは届くが、中《あた》るか中らぬかが疑問だ」と、岡田は答えた。
「遣って見給え」
岡田は躊躇《ちゅうちょ》した。「あれはもう寐《ね》るのだろう。石を投げ附けるのは可哀そうだ」
石原は笑った。「そう物の哀《あわれ》を知り過ぎては困るなあ。君が投げんと云うなら、僕が投げる」
岡田は不精らしく石を拾った。「そんなら僕が逃がして遣る」つぶてはひゅうと云う微《かす》かな響をさせて飛んだ。僕がその行方をじっと見ていると、一羽の雁が擡《もた》げていた頸《くび》をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面を滑って散った。しかし飛び起ちはしなかった。頸を垂れた雁は動かずに故《もと》の所にいる。
「中った」と、石原が云った。そして暫《しばら》く池の面《おもて》を見ていて、詞を継いだ。「あの雁は僕が取って来るから、その時は君達も少し手伝ってくれ給え」
「どうして取る」と、岡田が問うた。僕も覚えず耳を欹《そばだ》てた。
「先ず今は時が悪い。もう三十分立つと暗くなる。暗くさえなれば、僕がわけなく取って見せる。君達は手を出してくれなくても好いが、その時居合せて、僕の頼むことを聴いてくれ給え。雁は御馳走するから」と、石原は云った。
「面白いな」と、岡田が云った。「しかし三十分立つまでどうしているのかい」
「僕はこの辺《へん》をぶらついている。君達はどこへでも往って来給え。三人ここにいると目立つから」
僕は岡田に言った。「そんなら二人で池を一周して来ようか」
「好かろう」と云って岡田はすぐに歩き出した。
弐拾参《にじゅうさん》
僕は岡田と一しょに花園町の端《はな》を横切って、東照宮の石段の方へ往った。二人の間には暫く詞が絶えている。「不しあわせな雁もあるものだ」と、岡田が独言の様に云う。僕の写象には、何の論理的|連繋《れんけい》もなく、無縁坂の女が浮ぶ。「僕は只雁のいる所を狙って投げたのだがなあ」と、今度は僕に対して岡田が云う。「うん」と云いつつも、僕は矢張《やはり》女の事を思っている。「でも石原のあれを取りに往くのが見たいよ」と、僕が暫く立ってから云う。こん度は岡田が「うん」と云って、何やら考えつつ歩いている。多分雁が気になっているのであろう。
石段の下を南へ、弁天の方へ向いて歩く二人の心には、とにかく雁の死が暗い影を印《いん》していて、話がきれぎれになり勝であった。弁天の鳥居の前を通る時、岡田は強いて思想を他の方角に転ぜようとするらしく、「僕は君に話す事があるのだった」と言い出した。そして僕は全く思いも掛けぬ事を聞せられた。
その話はこうである。岡田は今夜己の部屋へ来て話そうと思っていたが、丁度己にさそわれたので、一しょに外へ出た。出てからは、食事をする時話そうと思っていたが、それもどうやら駄目になりそうである。そこで歩きながら掻《か》い撮《つ》まんで話すことにする。岡田は卒業の期を待たずに洋行することに極《き》まって、もう外務省から旅行券を受け取り、大学へ退学届を出してしまった。それは東洋の風土病を研究しに来たドイツの Professor《プロフェッソル》 W.《ウエエ》 が、往復旅費四千マルクと、月給二百マルクを給して岡田を傭《やと》ったからである。ドイツ語を話す学生の中《うち》で、漢文を楽に読むものと云う注文を受けて、Baelz《ベルツ》 教授が岡田を紹介した。岡田は築地にW《ウエエ》さんを尋ねて、試験を受けた。素問《そもん》と難経《なんきょう》とを二三行ずつ、傷寒論と病源候論とを五六行ずつ訳させられたのである。難経は生憎《あいにく》「三焦」の一節が出て、何と訳して好いかとまごついたが、これは chiao《チャオ》 と音訳して済ませた。とにかく試験に合格して、即座に契約が出来た。Wさんは Baelz さんの現に籍を置いているライプチヒ大学の教授だから、岡田をライプチヒへ連れて往って、ドクトルの試験はWさんの手で引き受けてさせる。卒業論文にはWさんのために訳した東洋の文献を使用しても好《い》いと云うことである。岡田はあす上条を出て、築地のWさんの所へ越して往って、Wさんが支那と日本とで買い集めた書物の荷造をする。それからWさんに附いて九州を視察して、九州からすぐに Messagerie《メッサジュリィ》 Maritime《マリチィム》 会社の舟に乗るのである。
僕は折々立ち留まって、「驚いた
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