ヒ」とか、「君は果断だよ」とか云って、随分ゆるゆる歩きつつこの話を聞いた積であった。しかし聞いてしまって時計を見れば、石原に分れてからまだ十分しか立たない。それにもう池の周囲の殆ど三分の二を通り過ぎて、仲町裏の池の端をはずれ掛かっている。
「このまま往っては早過ぎるね」と、僕は云った。
「蓮玉へ寄って蕎麦《そば》を一杯食って行こうか」と、岡田が提議した。
 僕はすぐに同意して、一しょに蓮玉庵へ引き返した。その頃下谷から本郷へ掛けて一番名高かった蕎麦屋である。
 蕎麦を食いつつ岡田は云った。「切角今まで遣って来て、卒業しないのは残念だが、所詮《しょせん》官費留学生になれない僕がこの機会を失すると、ヨオロッパが見られないからね」
「そうだとも。機逸すべからずだ。卒業がなんだ。向うでドクトルになれば同じ事だし、又そのドクトルをしなくたって、それも憂うるに足りないじゃないか」
「僕もそう思う。只資格を拵《こしら》えると云うだけだ。俗に随《したが》って聊《いささか》復《また》爾《しか》りだ」
「支度はどうだい。随分慌ただしい旅立になりそうだが」
「なに。僕はこのままで往く。Wさんの云うには、日本で洋服を拵えて行ったって、向うでは着られないそうだ」
「そうかなあ。いつか花月新誌で読んだが、成島柳北も横浜でふいと思い立って、即坐に決心して舟に乗ったと云うことだった」
「うん。僕も読んだ。柳北は内へ手紙も出さずに立ったそうだが、僕は内の方へは精《くわ》しく言って遣った」
「そうか。羨《うらや》ましいな。Wさんに附いて行くのだから、途中でまごつくことはあるまいが、旅行はどんな塩梅《あんばい》だろう。僕には想像も出来ない」
「僕もどんな物だか分からないが、きのう柴田|承桂《しょうけい》さんに逢って、これまで世話になった人だから、今度の一件を話したら、先生の書いた洋行案内をくれたよ」
「はあ。そんな本があるかねえ」
「うん。非売品だ。椋鳥《むくどり》連中に配るのだそうだ」
 こんな話をしているうちに、時計を見れば、もう三十分までに五分しかなかった。僕は岡田と急いで蓮玉庵を出て、石原の待っている所へ往った。もう池は闇に鎖《とざ》されて、弁天の朱塗の祠《ほこら》が模糊《もこ》として靄《もや》の中《うち》に見える頃であった。
 待ち受けていた石原は、岡田と僕とを引っ張って、池の緑に出て云った。「時刻は丁度好い。達者な雁は皆|塒《ねぐら》を変えてしまった。僕はすぐに為事に掛かる。それには君達がここにいて、号令を掛けてくれなくてはならないのだ。見給え。そこの三間ばかり前の所に蓮の茎の右へ折れたのがある。その延線に少し低い茎の左へ折れたのがある。僕はあの延線を前へ前へと行かなくてはならないのだ。そこで僕がそれをはずれそうになったら、君達がここから右とか左とか云って修正してくれるのだ」
「なる程。Parallaxe《パララックセ》 のような理窟《りくつ》だな。しかし深くはないだろうか」と岡田が云った。
「なに。背の立たない気遣は無い」こう云って、石原は素早く裸になった。
 石原の踏み込んだ処を見ると、泥は膝《ひざ》の上までしか無い。鷺《さぎ》のように足を※[#「足へん+喬」、第3水準1−92−40]《あ》げては踏み込んで、ごぼりごぼりと遣って行く。少し深くなるかと思うと、又浅くなる。見る見る二本の蓮の茎より前に出た。暫くすると、岡田が「右」と云った。石原は右へ寄って歩く。岡田が又「左」と云った。石原が余り右へ寄り過ぎたのである。忽《たちま》ち石原は足を停めて身を屈《かが》めた。そしてすぐに跡へ引き返して来た。遠い方の蓮の茎の辺《あたり》を過ぎた頃には、もう右の手に提げている獲ものが見えた。
 石原は太股《ふともも》を半分泥に汚《よご》しただけで、岸に着いた。獲ものは思い掛けぬ大さの雁であった。石原はざっと足を洗って、着物を着た。この辺《へん》はその頃まだ人の往来《ゆきき》が少くて、石原が池に這入《はい》ってから又上がって来るまで、一人も通り掛かったものが無かった。
「どうして持って行こう」と僕が云うと、石原が袴を穿きつつ云った。
「岡田君の外套《がいとう》が一番大きいから、あの下に入れて持って貰うのだ。料理は僕の所でさせる」
 石原は素人家の一間を借りていた。主人の婆あさんは、余り人の好くないのが取柄で、獲ものを分けて遣れば、口を噤《つぐ》ませることも出来そうである。その家は湯島切通しから、岩崎邸の裏手へ出る横町で、曲りくねった奥にある。石原はそこへ雁を持ち込む道筋を手短に説明した。先ずここから石原の所へ往くには、由《よ》るべき道が二条《ふたすじ》ある。即ち南から切通しを経る道と、北から無縁坂を経る道とで、この二条は岩崎邸の内に中心を有した圏を画《えが》いている
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