クに上条の格子戸を出たのだが、二人は門口から右へ曲った。
 無縁坂を降り掛かる時、僕は「おい、いるぜ」と云って、肘《ひじ》で岡田を衝いた。
「何が」と口には云ったが、岡田は僕の詞の意味を解していたので、左側の格子戸のある家を見た。
 家の前にはお玉が立っていた。お玉は窶《やつ》れていても美しい女であった。しかし若い健康な美人の常として、粧映《つくりばえ》もした。僕の目には、いつも見た時と、どこがどう変っているか、わからなかったが、とにかくいつもとまるで違った美しさであった。女の顔が照り赫いているようなので、僕は一種の羞明《まぶし》さを感じた。
 お玉の目はうっとりとしたように、岡田の顔に注がれていた。岡田は慌てたように帽を取って礼をして、無意識に足の運《はこび》を早めた。
 僕は第三者に有勝《ありがち》な無遠慮を以て、度々|背後《うしろ》を振り向いて見たが、お玉の注視は頗《すこぶ》る長く継続せられていた。
 岡田は俯向《うつむ》き加減になって、早めた足の運《はこび》を緩めずに坂を降りる。僕も黙って附いて降りる。僕の胸の中《うち》では種々の感情が戦っていた。この感情には自分を岡田の地位に置きたいと云うことが根調をなしている。しかし僕の意識はそれを認識することを嫌っている。僕は心の内で、「なに、己《おれ》がそんな卑劣な男なものか」と叫んで、それを打ち消そうとしている。そしてこの抑制が功を奏せぬのを、僕は憤っている。自分を岡田の地位に置きたいと云うのは、彼女《かのおんな》の誘惑に身を任せたいと思うのではない。只岡田のように、あんな美しい女に慕われたら、さぞ愉快だろうと思うに過ぎない。そんなら慕われてどうするか、僕はそこに意志の自由を保留して置きたい。僕は岡田のように逃げはしない。僕は逢って話をする。自分の清潔な身は汚さぬが、逢って話だけはする。そして彼女を妹の如くに愛する。彼女の力になって遣る。彼女を淤泥《おでい》の中《うち》から救抜する。僕の想像はこんな取留のない処に帰着してしまった。
 坂下の四辻《よつつじ》まで岡田と僕とは黙って歩いた。真っ直に巡査派出所の前を通り過ぎる時、僕はようよう物を言うことが出来た。「おい。凄《すご》い状況になっているじゃないか」
「ええ。何が」
「何がも何も無いじゃないか。君だってさっきからあの女の事を思って歩いていたに違ない。僕は度々振り返って見たが、あの女はいつまでも君の後影を見ていた。おおかたまだこっちの方角を見て立っているだろう。あの左伝の、目迎えて而《しこう》してこれを送ると云う文句だねえ。あれをあべこべに女の方で遣っているのだ」
「その話はもうよしてくれ給え。君にだけは顛末《てんまつ》を打ち明けて話してあるのだから、この上僕をいじめなくても好いじゃないか」
 こう云っているうちに、池の縁《ふち》に出たので、二人共ちょいと足を停めた。
「あっちを廻ろうか」と、岡田が池の北の方を指ざした。
「うん」と云って、僕は左へ池に沿うて曲った。そして十歩ばかりも歩いた時、僕は左手に並んでいる二階造の家を見て、「ここが桜痴《おうち》先生と末造君との第宅《ていたく》だ」と独語《ひとりごと》のように云った。
「妙な対照のようだが、桜痴居士も余り廉潔じゃないと云うじゃないか」と、岡田が云った。
 僕は別に思慮もなく、弁駁《べんばく》らしい事を言った。「そりゃあ政治家になると、どんなにしていたって、難癖を附けられるさ」恐らくは福地さんと末造との距離を、なるたけ大きく考えたかったのであろう。
 福地の邸《やしき》の板塀のはずれから、北へ二三軒目の小家《こいえ》に、ついこの頃「川魚」と云う看板を掛けたのがある。僕はそれを見て云った。「この看板を見ると、なんだか不忍の池の肴を食わせそうに見えるなあ」
「僕もそう思った。しかしまさか梁山泊《りょうざんぱく》の豪傑が店を出したと云うわけでもあるまい」
 こんな話をして、池の北の方へ往く小橋を渡った。すると、岸の上に立って何か見ている学生らしい青年がいた。それが二人の近づくのを見て、「やあ」と声を掛けた。柔術に凝っていて、学科の外の本は一切読まぬと云う性《たち》だから、岡田も僕も親しくはせぬが、そうかと云って嫌ってもいぬ石原と云う男である。
「こんな所に立って何を見ていたのだ」と、僕が問うた。
 石原は黙って池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁った夕《ゆうべ》の空気を透かして、指ざす方角を見た。その頃は根津に通ずる小溝《こみぞ》から、今三人の立っている汀《みぎわ》まで、一面に葦《あし》が茂っていた。その葦の枯葉が池の中心に向って次第に疎《まばら》になって、只|枯蓮《かれはす》の襤褸《ぼろ》のような葉、海綿のような房《ぼう》が碁布《きふ》せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れ
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