轣A追手《おいて》を帆に孕《はら》ませた舟のように、志す岸に向って走る気になった。それで梅をせき立てて、親許《おやもと》に返して遣ったのである。邪魔になる末造は千葉へ往って泊る。女中の梅も親の家に帰って泊る。これからあすの朝までは、誰にも掣肘《せいちゅう》せられることの無い身の上だと感ずるのが、お玉のためには先《ま》ず愉快でたまらない。そしてこうとんとん拍子に事が運んで行くのが、終局の目的の容易に達せられる前兆でなくてはならぬように思われる。きょうに限って岡田さんが内の前をお通なさらぬことは決して無い。往反《ゆきかえり》に二度お通なさる日もあるのだから、どうかして一度逢われずにしまうにしても、二度共見のがすようなことは無い。きょうはどんな犠牲を払っても物を言い掛けずには置かない。思い切って物を言い掛けるからは、あの方の足が留められぬ筈が無い。わたしは卑しい妾に身を堕《おと》している。しかも高利貸の妾になっている。だけれど生娘《きむすめ》でいた時より美しくはなっても、醜くはなっていない。その上どうしたのが男に気に入ると云うことは、不為合《ふしあわせ》な目に逢った物怪《もっけ》の幸《さいわい》に、次第に分かって来ているのである。して見れば、まさか岡田さんに一も二もなく厭《いや》な女だと思われることはあるまい。いや。そんな事は確かに無い。若し厭な女だと思ってお出なら、顔を見合せる度に礼をして下さる筈が無い。いつか蛇を殺して下すったのだってそうだ。あれがどこの内の出来事でも、きっと手を藉して下すったのだと云うわけではあるまい。若しわたしの内でなかったら、知らぬ顔をして通り過ぎておしまいなすったかも知れない。それにこっちでこれだけ思っているのだから、皆までとは行かぬにしても、この心が幾らか向うに通《とお》っていないことはない筈だ。なに。案じるよりは生むが易いかも知れない。こんな事を思い続けているうちに、小桶の湯がすっかり冷えてしまったのを、お玉はつめたいとも思わずにいた。
 膳を膳棚にしまって箱火鉢の所に帰って据わったお玉は、なんだか気がそわそわしてじっとしてはいられぬと云う様子をしていた。そしてけさ梅が綺麗《きれい》に篩《ふる》った灰を、火箸で二三度掻き廻したかと思うと、つと立って着物を着換えはじめた。同朋町《どうぼうちょう》の女髪結の所へ往くのである。これは不断来る髪結が人の好い女で、余所行《よそゆき》の時に結いに往けと云って、紹介して置いてくれたのに、これまでまだ一度も往かなかった内なのである。

     弐拾弐《にじゅうに》

 西洋の子供の読む本に、釘《くぎ》一本と云う話がある。僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。僕のし掛けたこの話では、青魚《さば》の未醤煮《みそに》が丁度釘一本と同じ効果をなすのである。
 僕は下宿屋や学校の寄宿舎の「まかない」に饑《うえ》を凌《しの》いでいるうちに、身の毛の弥立《よだ》つ程厭な菜が出来た。どんな風通しの好《い》い座敷で、どんな清潔な膳の上に載せて出されようとも、僕の目が一たびその菜を見ると、僕の鼻は名状すべからざる寄宿舎の食堂の臭気を嗅《か》ぐ。煮肴《にざかな》に羊栖菜《ひじき》や相良麩《さがらぶ》が附けてあると、もうそろそろこの嗅覚《きゅうかく》の hallucination《アリュシナション》 が起り掛かる。そしてそれが青魚の未醤煮に至って窮極の程度に達する。
 然るにその青魚の未醤煮が或日《あるひ》上条の晩飯の膳に上《のぼ》った。いつも膳が出ると直ぐに箸を取る僕が躊躇《ちゅうちょ》しているので、女中が僕の顔を見て云った。
「あなた青魚がお嫌《きらい》」
「さあ青魚は嫌じゃない。焼いたのなら随分食うが、未醤煮は閉口だ」
「まあ。お上さんが存じませんもんですから。なんなら玉子でも持ってまいりましょうか」こう云って立ちそうにした。
「待て」と僕は云った。「実はまだ腹も透いていないから、散歩をして来《き》よう。お上さんにはなんとでも云って置いてくれ。菜が気に入らなかったなんて云うなよ。余計な心配をさせなくても好《い》いから」
「それでもなんだかお気の毒様で」
「馬鹿を言え」
 僕が立って袴《はかま》を穿《は》き掛けたので、女中は膳を持って廊下へ出た。僕は隣の部屋へ声を掛けた。
「おい。岡田君いるか」
「いる。何か用かい」岡田ははっきりした声で答えた。
「用ではないがね、散歩に出て、帰りに豊国屋へでも往こうかと思うのだ。一しょに来ないか」
「行こう。丁度君に話したい事もあるのだ」
 僕は釘に掛けてあった帽を取って被って、岡田と一しょに上条を出た。午後四時過であったかと思う。どこへ往こうと云う相談もせ
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