ォくしはすまいかと、お玉は始終心配して、尋ねて往く度に様子を見るが、父親は全く知らずにいるらしい。それはその筈である。父親は池の端に越して来てから、暫《しばら》く立つうちに貸本を読むことを始めて、昼間はいつも眼鏡を掛けて貸本を読んでいる。それも実録物とか講談物とか云う「書き本」に限っている。この頃読んでいるのは三河後風土記《みかわごふうどき》である。これはだいぶ冊数が多いから、当分この本だけで楽めると云っている。貸本屋が「読み本」を見せて勧めると、それは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》の書いてある本だろうと云って、手に取って見ようともしない。夜は目が草臥《くたび》れると云って本を読まずに、寄せへ往く。寄せで聞くものなら、本当か※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]かなどとは云わずに、落語も聞けば義太夫も聴く。主に講釈ばかり掛かる広小路の席へは、余程気に入った人が出なくては往かぬのである。道楽は只それだけで、人と無駄話をすると云うことが無いから、友達も出来ない。そこで末造の身の上なぞを聞き出す因縁は生じて来ぬのである。
それでも近所には、あの隠居の内へ尋ねて来る好い女はなんだろうと穿鑿《せんさく》して、とうとう高利貸の妾だそうだと突き留めたものもある。若し両隣に口のうるさい人でもいると、爺いさんがどんなに心安立《こころやすだて》をせずにいても、無理にも厭な噂《うわさ》を聞せられるのだが、為合せな事には一方の隣が博物館の属官で、法帖《ほうじょう》なんぞをいじって手習ばかりしている男、一方の隣がもう珍らしいものになっている板木師《はんぎし》で、篆刻《てんこく》なんぞには手を出さぬ男だから、どちらも爺いさんの心の平和を破るような虞《おそれ》はない。まだ並んでいる家の中で、店を開けて商売をしているのは蕎麦屋《そばや》の蓮玉庵と煎餅屋《せんべいや》と、その先きのもう広小路の角に近い処の十三屋と云う櫛屋《くしや》との外には無かった時代である。
爺いさんは格子戸を開けて這入《はい》る人のけはい、軽げな駒下駄の音だけで、まだ優しい声のおとないを聞かぬうちに、もうお玉が来たのだと云うことを知って、読みさしの後風土記を下に置いて待っている。掛けていた目金を脱《はず》して、可哀い娘の顔を見る日は、爺いさんのためには祭日である。娘が来れば、きっと目金を脱す。目金で見た方が好く見える筈だが、どうしても目金越しでは隔てがあるようで気が済まぬのである。娘に話したい事はいつも溜《た》まっていて、その一部分を忘れて残したのに、いつも娘の帰った跡で気が附く。しかし「檀那は御機嫌好くてお出になるかい」と末造の安否を問うことだけは忘れない。
お玉はきょう機嫌の好《い》い父親の顔を見て、阿茶《あちゃ》の局《つぼね》の話を聞せて貰い、広小路に出来た大千住《おおせんじゅ》の出店で買ったと云う、一尺四方もある軽焼の馳走になった。そして父親が「まだ帰らなくても好いかい」と度々聞くのに、「大丈夫よ」と笑いながら云って、とうとう正午近くまで遊んでいた。そしてこの頃のように末造が不意に来ることのあるのを父親に話したら、あの帰らなくても好いかと云う催促が一層|劇《はげ》しくなるだろうと、心の中《うち》で思った。自分はいつか横着になって、末造に留守の間《ま》に来られてはならぬと云うような心遣をせぬようになっているのである。
弐拾壱《にじゅういち》
時候が次第に寒くなって、お玉の家の流しの前に、下駄で踏む処だけ板が土に填《う》めてある、その板の上には朝霜が真っ白に置く。深い井戸の長い弔瓶縄《つるべなわ》が冷たいから、梅に気の毒だと云って、お玉は手袋を買って遣《や》ったが、それを一々|嵌《は》めたり脱いだりして、台所の用が出来るものでは無いと思った梅は、貰った手袋を大切にしまって置いて、矢張《やはり》素手で水を汲む。洗物をさせるにも、雑巾掛《ぞうきんがけ》をさせるにも、湯を涌《わ》かして使わせるのに、梅の手がそろそろ荒れて来る。お玉はそれを気にして、こんな事を言った。「なんでも手を濡らした跡をそのままにして置くのが悪いのだよ。水から手を出したら、すぐに好く拭いて乾かしてお置。用が片附いたら、忘れないでシャボンで手を洗うのだよ」こう云ってシャボンまで買って渡した。それでも梅の手が次第に荒れるのを、お玉は気の毒がっている。そしてあの位の事は自分もしたが、梅のように手の荒れたことは無かったのにと、不思議にも思うのである。
朝目を醒まして起きずにはいられなかったお玉も、この頃は梅が、「けさは流しに氷が張っています、も少しお休になっていらっしゃいまし」なぞと云うと、つい布団にくるまっている様になった。教育家は妄想《もうぞう》を起させぬために
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