ェ足を駐《と》めたに違いない。足さえ駐めて貰えば、「あの、こないだは飛んだ事でお世話様になりまして」とでも、なんとでも云うことが出来たのだ。お玉はこんな事を考えて火をいじっているうちに、鉄瓶の蓋《ふた》が跳《おど》り出したので、湯気を洩《も》らすように蓋を切った。
 それからはお玉は自分で物を言おうか、使を遣ろうかと二様に工夫を凝らしはじめた。そのうち夕方は次第に涼しくなって、窓の障子は開けていにくい。庭の掃除はこれまで朝一度に極《き》まっていたのに、こないだの事があってからは、梅が朝晩に掃除をするので、これも手が出しにくい。お玉は湯に往く時刻を遅くして、途中で岡田に逢おうとしたが、坂下の湯屋までの道は余り近いので、なかなか逢うことが出来なかった。又使を遣ると云うことも、日数《ひかず》が立てば立つ程出来にくくなった。
 そこでお玉は一時こんな事を思って、無理に諦めを附けていた。わたしはあれきり岡田さんにお礼を言わないでいる。言わなくては済まぬお礼が言わずにあって見れば、わたしは岡田さんのしてくれた事を恩に被《き》ている。このわたしが恩に被ていると云うことは岡田さんには分かっている筈である。こうなっているのが、却《かえ》って下手にお礼をしてしまったより好《い》いかも知れぬと思ったのである。
 しかしお玉はその恩に被ていると云うことを端緒にして、一刻も早く岡田に近づいて見たい。唯その方法手段が得られぬので、日々《にちにち》人知れず腐心している。
     ――――――――――――――――
 お玉は気の勝った女で、末造に囲われることになってから、短い月日の間に、周囲から陽に貶《おとし》められ、陰に羨《うらや》まれる妾と云うものの苦しさを味って、そのお蔭《かげ》で一種の世間を馬鹿にしたような気象を養成してはいるが、根が善人で、まだ人に揉《も》まれていぬので、下宿屋に住まっている書生の岡田に近づくのをひどくおっくうに思っていたのである。
 そのうち秋日和に窓を開けていて、又岡田と会釈を交す日があっても、切角親しく物を言って、手拭を手渡ししたのが、少しも接近の階段を形づくらずにしまって、それ程の事のあった後《のち》が、何事もなかった前と、なんの異なる所もなくなっていた。お玉はそれをひどくじれったく思った。
 末造が来ていても、箱火鉢を中に置いて、向き合って話をしている間に、これが岡田さんだったらと思う。最初はそう思う度に、自分で自分の横着を責めていたが、次第に平気で岡田の事ばかり思いつつも、話の調子を合せているようになった。それから末造の自由になっていて、目を瞑《つぶ》って岡田の事を思うようになった。折々は夢の中で岡田と一しょになる。煩わしい順序も運びもなく一しょになる。そして「ああ、嬉しい」と思うとたんに、相手が岡田ではなくて末造になっている。はっと驚いて目を醒まして、それから神経が興奮して寐《ね》られぬので、じれて泣くこともある。
 いつの間にか十一月になった。小春日和が続いて、窓を開けて置いても目立たぬので、お玉は又岡田の顔を毎日のように見ることが出来た。これまで薄ら寒い雨の日などが続いて、二三日も岡田の顔の見られぬことがあると、お玉は塞《ふさ》いでいた。それでも飽くまで素直な性《たち》なので、梅に無理を言って迷惑させるような事はない。ましてや末造に不機嫌な顔を見せなんぞはしない。唯そんな時は箱火鉢の縁《ふち》に肘を衝《つ》いて、ぼんやりして黙っているので、梅が「どこかお悪いのですか」と云ったことがあるだけである。それが岡田の顔がこの頃続いて見られるので、珍らしく浮き浮きして来て、或る朝いつもよりも気軽に内を出て、池の端の父親の所へ遊びに往った。
 お玉は父親を一週間に一度ずつ位はきっと尋ねることにしているが、まだ一度も一時間以上腰を落ち着けていたことは無い。それは父親が許さぬからである。父親は往く度に優しくしてくれる。何か旨《うま》い物でもあると、それを出して茶を飲ませる。しかしそれだけの事をしてしまうと、すぐに帰れと云う。これは老人の気の短い為めばかりでは無い。奉公に出したからには、勝手に自分の所に引き留めて置いては済まぬと思うのである。お玉が二度目か三度目に父親の所に来た時、午前のうちは檀那の見えることは決して無いから、少しはゆっくりしていても好《い》いと云ったことがある。父親は承知しなかった。「なる程これまではお出《いで》がなかったかも知れない。それでもいつ何の御用事があってお出なさるかも知れぬではないか。檀那に申し上げておひまを戴いた日は別だが、お前のように買物に出て寄って、ゆっくりしていてはならない。それではどこをうろついているかと、檀那がお思なされても為方が無い」と云うのであった。
 若し父親が末造の職業を聞いて心持を
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