ツ年に床に入《い》ってから寐附かずにいるな、目が醒めてから起きずにいるなと戒める。少壮な身を暖い衾《ふすま》の裡《うち》に置けば、毒草の花を火の中に咲かせたような写象が萌《きざ》すからである。お玉の想像もこんな時には随分|放恣《ほうし》になって来ることがある。そう云う時には目に一種の光が生じて、酒に酔ったように瞼《まぶた》から頬に掛け紅《くれない》が漲《みなぎ》るのである。
 前晩《ぜんばん》に空が晴れ渡って、星がきらめいて、暁に霜の置いた或る日の事であった。お玉はだいぶ久しく布団の中で、近頃覚えた不精《ぶしょう》をしていて、梅が疾《と》っくに雨戸を繰り開けた表の窓から、朝日のさし入るのを見て、やっと起きた。そして細帯一つでねんねこ半纏《はんてん》を羽織って、縁側に出て楊枝《ようじ》を使っていた。すると格子戸をがらりと開ける音がする。「いらっしゃいまし」と愛想好く云う梅の声がする。そのまま上がって来る足音がする。
「やあ。寐坊だなあ」こう云って箱火鉢の前に据わったのは末造である。
「おや。御免なさいましよ。大そうお早いじゃございませんか」銜《くわ》えていた楊枝を急いで出して、唾《つばき》をバケツの中に吐いてこう云ったお玉の、少しのぼせたような笑顔が、末造の目にはこれまでになく美しく見えた。一体お玉は無縁坂に越して来てから、一日一日と美しくなるばかりである。最初は娘らしい可哀さが気に入っていたのだが、この頃はそれが一種の人を魅するような態度に変じて来た。末造はこの変化を見て、お玉に情愛が分かって来たのだ、自分が分からせて遣ったのだと思って、得意になっている。しかしこれは何事をも鋭く看破する末造の目が、笑止にも愛する女の精神状態を錯《あやま》り認めているのである。お玉は最初主人大事に奉公をする女であったのが、急劇な身の上の変化のために、煩悶《はんもん》して見たり省察《せいさつ》して見たりした挙句、横着と云っても好《い》いような自覚に到達して、世間の女が多くの男に触れた後《のち》に纔《わず》かに贏《か》ち得る冷静な心と同じような心になった。この心に翻弄《ほんろう》せられるのを、末造は愉快な刺戟《しげき》として感ずるのである。それにお玉は横着になると共に、次第に少しずつじだらくになる。末造はこのじだらくに情慾を煽《あお》られて、一層お玉に引き附けられるように感ずる。この一切の変化が末造には分からない。魅せられるような感じはそこから生れるのである。
 お玉はしゃがんで金盥《かなだらい》を引き寄せながら云った。「あなた一寸《ちょっと》あちらへ向いていて下さいましな」
「なぜ」と云いつつ、末造は金天狗《きんてんぐ》に火を附けた。
「だって顔を洗わなくちゃ」
「好いじゃないか。さっさと洗え」
「だって見ていらっしゃっちゃ、洗えませんわ」
「むずかしいなあ。これで好いか」末造は烟《けぶり》を吹きつつ縁側に背中を向けた。そして心中になんと云うあどけない奴だろうと思った。
 お玉は肌も脱がずに、只|領《えり》だけくつろげて、忙がしげに顔を洗う。いつもより余程手を抜いてはいるが、化粧の秘密を藉《か》りて、庇《きず》を蔽《おお》い美を粧《よそお》うと云う弱点も無いので、別に見られていて困ることは無い。
 末造は最初背中を向けていたが、暫くするとお玉の方へ向き直った。顔を洗う間末造に背中を向けていたお玉はこれを知らずにいたが、洗ってしまって鏡台を引き寄せると、それに末造の紙巻を銜えた顔がうつった。
「あら、ひどい方ね」とお玉は云ったが、そのまま髪を撫《な》で附けている。くつろげた領の下に項《うなじ》から背へ掛けて三角形に見える白い肌、手を高く挙げているので、肘の上二三寸の所まで見えるふっくりした臂《ひじ》が、末造のためにはいつまでも厭《あ》きない見ものである。そこで自分が黙って待っていたら、お玉が無理に急ぐかも知れぬと思って、わざと気楽げにゆっくりした調子で話し出した。
「おい急ぐには及ばないよ。何も用があってこんなに早く出掛けて来たのではないのだ。実はこないだお前に聞かれて、今晩あたり来るように云って置いたが、ちょいと千葉へ往かなくてはならない事になったのだ。話が旨く運べば、あすのうちに帰って来られるのだが、どうかするとあさってになるかも知れない」
 櫛をふいていたお玉は「あら」と云って振り返った。顔に不安らしい表情が見えた。
「おとなしくして待っているのだよ」と、笑談《じょうだん》らしく云って、末造は巻烟草入《まきたばこいれ》をしまった。そしてついと立って戸口へ出た。
「まあお茶も上げないうちに」と云いさして、投げるように櫛を櫛箱に入れたお玉が、見送りに起《た》って出た時には、末造はもう格子戸を開けていた。
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