つ》ったりする。手水《ちょうず》をさせて子供を寝かす。夫の夕食の膳に蝿除《はえよけ》を被《かぶ》せて、火鉢に鉄瓶を掛けて、次の間《ま》に置く。夫が夕食に帰らなかった時は、いつでもこうして置くのである。
お常はこれだけの事を器械的にしてしまった。そして団扇《うちわ》を一本持って蚊屋《かや》の中へ這入《はい》って据わった。その時けさ途《みち》で逢った、あの女の所に、今時分夫が往っているだろうと云うことが、今更のようにはっきりと想像せられた。どうも体を落ち着けて、据わってはいられぬような気持がする。どうしよう、どうしようと思ううちに、ふらふらと無縁坂の家《うち》の所まで往って見たくなる。いつか藤村《ふじむら》へ、子供の一番好きな田舎饅頭《いなかまんじゅう》を買いに往った時、したて物の師匠の内の隣と云うのはこの家だなと思って、見て通ったので、それらしい格子戸の家は分かっている。ついあそこまで往って見たい。火影《ほかげ》が外へ差しているか。話声が微《かす》かにでも聞えているか。それだけでも見て来たい。いやいや、そんな事は出来ない。外へ出るには女中部屋の傍の廊下を通らぬわけには行かない。この頃はあの廊下の所の障子がはずしてある。松はまだ起きて縫物をしている筈である。今時分どこへ往くのだと聞かれた時、なんとも返事のしようがない。何か買いに出ると云ったら、松が自分で行こうと云うだろう。して見れば、どんなに往って見たくても、そっと往って見ることは出来ない。ええ、どうしたら好かろう。けさ内へ帰る時は、ちっとも早くあの人に逢いたいと思ったが、あの時逢ったら、わたしはなんと云っただろう。逢ったら、わたしの事だから、取留のない事ばかり言ったに違いない。そうしたらあの人が又好い加減の事を言って、わたしを騙してしまっただろう。あんな利口な人だから、どうせ喧嘩をしては※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》わない。いっそ黙っていようか。しかし黙っていてどうなるだろうか。あんな女が附いていては、わたしなんぞはどうなっても構わぬ気になっているだろう。どうしよう。どうしよう。
こんな事を繰り返し繰り返し思っては、何遍か思想が初の発足点《ほっそくてん》に跡戻《あともどり》をする。そのうちに頭がぼんやりして来て、何がなんだか分からなくなる。しかしとにかく烈《はげ》しく夫に打っ
前へ
次へ
全84ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング