附かったって駄目だから、よそうと云うことだけは極めることが出来た。
 そこへ末造が這入って来た。お常はわざとらしく取り上げた団扇の柄をいじって黙っている。
「おや。又変な様子をしているな。どうしたのだい」上さんがいつもする「お帰りなさい」と云う挨拶をしないでいても、別に腹は立てない。機嫌が好《い》いからである。
 お常は黙っている。衝突を避けようとは思ったが、夫の帰ったのを見ると、悔やしさが込み上げて来て、まるで反抗せずにはいられそうになくなった。
「又何か下《く》だらない事を考えているな。よせよせ」上さんの肩の所に手を掛けて、二三遍ゆさぶって置いて、自分の床に据わった。
「わたしどうしようかと思っていますの。帰ろうと云ったって、帰る内は無し、子供もあるし」
「なんだと。どうしようかと思っている。どうもしなくたって好いじゃないか。天下は太平無事だ」
「それはあなたは太平楽を言っていられますでしょう。わたしさえどうにかなってしまえば好《い》いのだから」
「おかしいなあ。どうにかなるなんて。どうなるにも及ばない。そのままでいれば好《い》い」
「たんと茶にしてお出《いで》なさい。いてもいなくっても好い人間だから、相手にはならないでしょう。そうね。いてもいなくってもじゃない。いない方が好いに極まっているのだっけ」
「いやにひねくれた物の言いようをするなあ。いない方が好いのだって。大違だ。いなくては困る。子供の面倒を見て貰うばかりでも、大役だからな」
「それは跡へ綺麗なおっ母さんが来て、面倒を見てくれますでしょう。継子《ままこ》になるのだけど」
「分からねえ。二親揃って附いているから、継子なんぞにはならない筈だ」
「そう。きっとそうなの。まあ、好い気な物ね。ではいつまでも今のようにしている積なのね」
「知れた事よ」
「そう。別品とおたふくとに、お揃の蝙蝠を差させて」
「おや。なんだい、それは。お茶番の趣向見たいな事を言っているじゃないか」
「ええ。どうせわたしなんぞは真面目な狂言には出られませんからね」
「狂言より話が少し真面目にして貰いたいなあ。一体その蝙蝠てえのはなんだい」
「分かっているでしょう」
「分かるものか。まるっきり見当が附かねえ」
「そんなら言いましょう。あの、いつか横浜から蝙蝠を買って来たでしょう」
「それがどうした」
「あれはわたしばかしに買って下すったの
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