うのでないことは勿論であるが、身を任せることになっている末造が高利貸であったと分かって、その末造を憎むとか、そう云う男に身を任せているのが悔やしいとか、悲しいとか云うのでもない。お玉も高利貸は厭なもの、こわいもの、世間の人に嫌われるものとは、仄《ほの》かに聞き知っているが、父親が質屋の金しか借りたことがなく、それも借りたい金高《きんだか》を番頭が因業で貸してくれぬことがあっても、父親は只困ると云うだけで番頭を無理だと云って怨んだこともない位だから、子供が鬼がこわい、お廻りさんがこわいのと同じように、高利貸と云う、こわいものの存在《ぞんざい》を教えられていても、別に痛切な感じは持っていない。そんなら何が悔やしいのだろう。
一体お玉の持っている悔やしいと云う概念には、世を怨み人を恨む意味が甚だ薄い。強いて何物をか怨む意味があるとするなら、それは我身の運命を怨むのだとでも云おうか。自分が何の悪い事もしていぬのに、余所《よそ》から迫害を受けなくてはならぬようになる。それを苦痛として感ずる。悔やしいとはこの苦痛を斥《さ》すのである。自分が人に騙《だま》されて棄てられたと思った時、お玉は始て悔やしいと云った。それからたったこの間妾と云うものにならなくてはならぬ事になった時、又悔やしいを繰り返した。今はそれが只妾と云うだけでなくて、人の嫌う高利貸の妾でさえあったと知って、きのうきょう「時間」の歯で咬《か》まれて角《かど》が※[#「元+りっとう」、第3水準1−14−60]《つぶ》れ、「あきらめ」の水で洗われて色の褪《さ》めた「悔やしさ」が、再びはっきりした輪廓《りんかく》、強い色彩をして、お玉の心の目に現われた。お玉が胸に鬱結《うっけつ》している物の本体は、強いて条理を立てて見れば先ずこんな物ででもあろうか。
暫《しばら》くするとお玉は起って押入を開けて、象皮賽《ぞうひまがい》の鞄《かばん》から、自分で縫った白金巾《しろかなきん》の前掛を出して腰に結んで、深い溜息《ためいき》を衝《つ》いて台所へ出た。同じ前掛でも、絹のはこの女の為めに、一種の晴着になっていて、台所へ出る時には掛けぬことにしてある。かれは湯帷子《ゆかた》にさえ領垢《えりあか》の附くのを厭《いと》って、鬢や髱《たぼ》の障る襟の所へ、手拭《てぬぐい》を折り掛けて置く位である。
お玉はこの時もう余程落ち着いていた。あ
前へ
次へ
全84ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング