んは急にひどく不機嫌な顔をして、「おやそう、お前さんお気の毒だが帰ってね、そうお云い、ここの内には高利貸の妾なんぞに売る肴はないのだから」と云って、それきり横を向いて、烟草を呑んで構い附けない。梅は余り悔やしいので、外の肴屋へ行く気もなくなって、駈けて帰った。そして主人の前で、気の毒そうに、肴屋の上さんの口上を、きれぎれに繰り返したのである。
 お玉は聞いているうちに、顔の色が脣《くちびる》まで蒼《あお》くなった。そして良《やや》久しく黙っていた。世馴れぬ娘の胸の中《うち》で、込み入った種々の感情が chaos《カオス》 をなして、自分でもその織り交ぜられた糸をほぐして見ることは出来ぬが、その感情の入り乱れたままの全体が、強い圧を売られた無垢《むく》の処女の心の上に加えて、体じゅうの血を心の臓に流れ込ませ、顔は色を失い、背中には冷たい汗が出たのである。こんな時には、格別重大でない事が、最初に意識せられるものと見えて、お玉はこんな事があっては梅がもうこの内にはいられぬと云うだろうかと先ず思った。
 梅はじっと血色《ちいろ》の亡くなった主人の顔を見ていて、主人がひどく困っていると云うことだけは暁《さと》ったが、何に困っているのか分からない。つい腹が立って帰っては来たが、午《ひる》のお菜《さい》がまだないのに、このままにしていては済まぬと云うことに気が付いた。さっき貰って出て行ったお足《あし》さえ、まだ帯の間に挿《はさ》んだきりで出さずにいるのであった。「ほんとにあんな厭《いや》なお上さんてありやしないわ。あんな内のお肴を誰が買って遣るものか。もっと先の、小さいお稲荷《いなり》さんのある近所に、もう一軒ありますから、すぐに行って買って来ましょうね」慰めるようにお玉の顔を見て起ち上がる。お玉は梅が自分の身方になってくれた、刹那の嬉しさに動されて、反射的に微笑《ほほえ》んで頷《うなず》く。梅はすぐばたばたと出て行った。
 お玉は跡にそのまま動かずにいる。気の張《はり》が少し弛《ゆる》んで、次第に涌《わ》いて来る涙が溢《あふ》れそうになるので、袂《たもと》からハンカチイフを出して押えた。胸の内には只悔やしい、悔やしいと云う叫びが聞える。これがかの混沌《こんとん》とした物の発する声である。肴屋が売ってくれぬのが憎いとか、売ってくれぬような身の上だと知って悔やしいとか、悲しいとか云
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