ように来るので、若し留守を明けていて、機嫌を損じてはならないと云う心配から、一日一日と、思いながら父親の所へ尋ねて行かずに過すのである。檀那は朝までいることはない。早い時は十一時頃に帰ってしまう。又きょうは外《ほか》へ行かなくてはならぬのだが、ちょいと寄ったと云って、箱火鉢の向うに据わって、烟草を呑んで帰ることもある。それでもきょうは檀那がきっと来ないと見極めの附いた日というのがないので、思い切って出ることが出来ない。昼間出れば出られぬことはない筈だが、使っている小女が子供と云っても好い位だから、何一つ任せて置かれない。それになんだか近所のものに顔を見られるような気がして、昼間は外へ出たくない。初のうちは坂下の湯に這入りに行くにも、今頃は透いているか見て来ておくれと、小女に様子を見て来させた上で、そっと行った位である。
 何事もなくても、こんな風に怯《おく》れがちなお玉の胆《きも》をとりひしいだ事が、越して来てから三日目にあった。それは越した日に八百屋も、肴屋《さかなや》も通帳《かよいちょう》を持って来て、出入《でいり》を頼んだのに、その日には肴屋が来ぬので、小さい梅を坂下へ遣《や》って、何か切身でも買って来させようとした時の事である。お玉は毎日肴なんぞが食いたくはない。酒を飲まぬ父が体に障らぬお数《かず》でさえあれば、なんでも好《い》いと云う性《たち》だから、有り合せの物で御飯を食べる癖が附いていた。しかし隣の近い貧乏所帯で、あの家では幾日《いくか》立っても生腥気《なまぐさけ》も食べぬと云われた事があったので、若し梅なんぞが不満足に思ってはならぬ、それでは手厚くして下さる檀那に済まぬというような心から、わざわざ坂下の肴屋へ見せに遣ったのである。ところが、梅が泣顔をして帰って来た。どうしたかと問うと、こう云うのである。肴屋を見附けて這入ったら、その家はお内へ通《かよい》を持って来たのとは違った家であった。御亭主がいないで、上《かみ》さんが店にいた。多分御亭主は河岸から帰って、店に置くだけの物を置いて、得意先きを廻りに出たのであろう。店に新しそうな肴が沢山あった。梅は小鯵《こあじ》の色の好《い》いのが一山あるのに目を附けて、値を聞いて見た。すると上さんが、「お前さんは見附けない女中さんだが、どこから買いにお出《いで》だ」と云ったので、これこれの内から来たと話した。上さ
前へ 次へ
全84ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング