した。そして二人を座鋪へ入れて置いて、世話をする婆あさんを片蔭へ呼んで、紙に包んだ物を手に握らせて、何やら※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]いた。婆あさんはお歯黒を剥《は》がした痕《あと》のきたない歯を見せて、恭しいような、人を馬鹿にしたような笑いようをして、頭を二三遍屈めて、そのまま跡へ引き返して行った。
 座鋪に帰って、親子のものの遠慮して這入口に一塊《ひとかたまり》になっているのを見て、末造は愛想《あいそ》好く席を進めさせて、待っていた女中に、料理の注文をした。間もなく「おとし」を添えた酒が出たので、先《ま》ず爺いさんに杯《さかずき》を侑《すす》めて、物を言って見ると、元は相応な暮しをしただけあって、遽《にわか》に身なりを拵《こしら》えて座敷へ通った人のようではなかった。
 最初は爺いさんを邪魔にして、苛々《いらいら》したような心持になっていた末造も、次第に感情を融和させられて、全く預想《よそう》しなかった、しんみりした話をすることになった。そして末造は自分の持っている限《かぎり》のあらゆる善良な性質を表へ出すことを努めながら、心の奥には、おとなしい気立の、お玉に信頼する念を起さしめるには、この上もない、適当な機会が、偶然に生じて来たのを喜んだ。
 料理が運ばれた頃には、一座はなんとなく一家のものが遊山《ゆさん》にでも出て、料理屋に立ち寄ったかと思われるような様子になっていた。平生妻子に対しては、tyran《チラン》 のような振舞をしているので、妻からは或るときは反抗を以て、或るときは屈従を以て遇せられている末造は、女中の立った跡で、恥かしさに赤くした顔に、つつましやかな微笑を湛《たた》えて酌をするお玉を見て、これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた。しかし末造はこの席で幻のように浮かんだ幸福の影を、無意識に直覚しつつも、なぜ自分の家庭生活にこう云う味が出ないかと反省したり、こう云う余所行《よそゆき》の感情を不断に維持するには、どれだけの要約がいるか、その要約が自分や妻に充たされるものか、充たされないものかと商量したりする程の、緻密《ちみつ》な思慮は持っていなかった。
 突然塀の外に、かちかちと拍子木を打つ音がした。続いて「へい、何か一枚|御贔屓様《ごひいきさま》を」と云った。二階にしていた三味線の音《ね》が止まって、女中が手摩《てすり》に掴《
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