来て、注文を聞いた。末造は連れが来てからにしようと云って、女中を立たせて、ひとり烟草《たばこ》を呑《の》んでいた。初め据わった時は少し熱いように思ったが、暫く立つと台所や便所の辺《あたり》を通って、いろいろの物の香を、微《かす》かに帯びた風が、廊下の方から折々吹いて来て、傍《そば》に女中の置いて行った、よごれた団扇《うちわ》を手に取るには及ばぬ位であった。
 末造は床の間の柱に寄り掛かって、烟草の烟《けぶり》を輪に吹きつつ、空想に耽《ふけ》った。好《い》い娘だと思って見て通った頃のお玉は、なんと云ってもまだ子供であった。どんな女になっただろう。どんな様子をして来るだろう。とにかく爺いさんが附いて来ることになったのは、いかにもまずかった。どうにかして爺いさんを早く帰してしまうことは出来ぬか知らんなんぞと思っている。二階では三味線の調子を合せはじめた。
 廊下に二三人の足音がして、「お連様が」と女中が先へ顔を出して云った。「さあ、ずっとお這入なさいよ。檀那はさばけた方だから、遠慮なんぞなさらないが好《い》い」轡虫《くつわむし》の鳴くような調子でこう云うのは、世話をしてくれた、例の婆あさんの声である。
 末造はつと席を起《た》った。そして廊下に出て見ると、腰を屈《かが》めて、曲角の壁際に躊躇《ちゅうちょ》している爺いさんの背後《うしろ》に、怯《おく》れた様子もなく、物珍らしそうにあたりを見て立っているのがお玉であった。ふっくりした円顔の、可哀らしい子だと思っていたに、いつの間にか細面になって、体も前よりはすらりとしている。さっぱりとした銀杏返《いちょうがえ》しに結《い》って、こんな場合に人のする厚化粧なんぞはせず、殆ど素顔と云っても好《よ》い。それが想像していたとは全く趣が変っていて、しかも一層美しい。末造はその姿を目に吸い込むように見て、心の内に非常な満足を覚えた。お玉の方では、どうせ親の貧苦を救うために自分を売るのだから、買手はどんな人でも構わぬと、捨身の決心で来たのに、色の浅黒い、鋭い目に愛敬《あいきょう》のある末造が、上品な、目立たぬ好みの支度をしているのを見て、捨てた命を拾ったように思って、これも刹那《せつな》の満足を覚えた。
 末造は爺いさんに、「ずっとあっちへお通りなすって下さい」と丁寧に云って、座鋪の方を指さしながら、目をお玉さんの方へ移して、「さあ」と促
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