つか》まって何か言っている。下では、「へい、さようなら成田屋の河内山《こうちやま》と音羽屋《おとわや》の直侍《なおざむらい》を一つ、最初は河内山」と云って、声色《こわいろ》を使いはじめた。
銚子《ちょうし》を換えに来ていた女中が、「おや、今晩のは本当のでございます」と云った。
末造には分からなかった。「本当のだの、嘘《うそ》のだのと云って、色々ありますかい」
「いえ、近頃は大学の学生さんが遣ってお廻りになります」
「失《や》っ張《ぱり》鳴物入で」
「ええ。支度から何からそっくりでございます。でもお声で分かります」
「そんなら極《き》まった人ですね」
「ええ。お一人しか、なさる方はございません」女中は笑っている。
「姉《ね》えさん、知っているのだね」
「こちらへもちょいちょいいらっしゃった方だもんですから」
爺いさんが傍《そば》から云った。「学生さんにも、御器用な方があるものですね」
女中は黙っていた。
末造が妙に笑った。「どうせそんなのは、学校では出来ない学生なのですよ」こう云って、心の中《うち》には自分の所へ、いつも来る学生共の事を考えている。中には随分職人の真似をして、小店と云う所を冷かすのが面白いなどと云って、不断も職人のような詞遣《ことばづかい》をしている人がある。しかしまさか真面目に声色を遣って歩く人があろうとは、末造も思っていなかったのである。
一座の話を黙って聞いているお玉を、末造がちょっと見て云った。
「お玉さんは誰が贔屓ですか」
「わたくし贔屓なんかございませんの」
爺いさんが詞を添えた。「芝居へ一向まいりませんのですから。柳盛座がじき近所なので、町内の娘さん達がみな覗《のぞ》きにまいりましても、お玉はちっともまいりません。好きな娘さん達は、あのどんちゃんどんちゃんが聞えては内にじっとしてはいられませんそうで」
爺いさんの話は、つい娘自慢になりたがるのである。
捌《はち》
話が極まって、お玉は無縁坂へ越して来ることになった。
ところが、末造がひどく簡単に考えていた、この引越《ひきこし》にも多少の面倒が附き纏った。それはお玉が父親をなるたけ近い所に置いて、ちょいちょい尋ねて行って、気を附けて上げるようにしたいと云い出したからである。最初からお玉は、自分が貰う給金の大部分を割いて親に送って、もう六十を越している親に不自
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