閨A留守には母親の据わっている所や、鬢《びん》の毛がいつも片頬に垂れ掛かっていて、肩から襷《たすき》を脱《はず》したことのめったに無い母親の姿などが、非常な速度を以《もっ》て入り替りつつ、小さい頭の中に影絵のように浮かんで来るのである。
 食事が済んだので、お梅は膳を下げた。片附けなくても好いとは云われても、洗う物だけは洗って置かなくてはと思って、小桶《こおけ》に湯を取って茶碗や皿をちゃらちゃら言わせていると、そこへお玉は紙に包んだ物を持って出て来た。「あら、失っ張り片附けているのね。それんばかりの物を洗うのはわけは無いから、わたしがするよ。お前髪はゆうべ結《い》ったのだからそれで好いわね。早く着物をお着替よ。そしてなんにもお土産が無いから、これを持ってお出」こう云って紙包をわたした。中には例の骨牌《かるた》のような恰好をした半円の青い札がはいっていたのである。
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 梅をせき立てて出して置いて、お玉は甲斐甲斐《かいがい》しく襷を掛け褄《つま》を端折《はしょ》って台所に出た。そしてさも面白い事をするように、梅が洗い掛けて置いた茶碗や皿を洗い始めた。こんな為事は昔取った杵柄《きねづか》で、梅なんぞが企て及ばぬ程迅速に、しかも周密に出来る筈のお玉が、きょうは子供がおもちゃを持って遊ぶより手ぬるい洗いようをしている。取り上げた皿一枚が五分間も手を離れない。そしてお玉の顔は活気のある淡紅色に赫《かがや》いて、目は空《くう》を見ている。
 そしてその頭の中には、極めて楽観的な写象が往来している。一体女は何事によらず決心するまでには気の毒な程迷って、とつおいつする癖に、既に決心したとなると、男のように左顧右眄《さこゆうべん》しないで、〔oe&ille`res〕《オヨイエエル》 を装われた馬のように、向うばかり見て猛進するものである。思慮のある男には疑懼《ぎく》を懐《いだ》かしむる程の障礙物《しょうがいぶつ》が前途に横《よこた》わっていても、女はそれを屑《もののくず》ともしない。それでどうかすると男の敢《あえ》てせぬ事を敢てして、おもいの外に成功することもある。お玉は岡田に接近しようとするのに、若し第三者がいて観察したら、もどかしさに堪えまいと思われる程、逡巡《しゅんじゅん》していたが、けさ末造が千葉へ立つと云って暇乞《いとまごい》に来てか
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