朝飯の膳を台所から運んで来た梅が、膳を下に置いて、「どうも済みません」と云って手を衝いた。
 箱火鉢の傍に据わって、火の上に被《かぶ》さった灰を火箸で掻《か》き落していたお玉は、「おや、何をあやまるのだい」と云って、にっこりした。
「でもついお茶を上げるのが遅くなりまして」
「ああ。その事かい。あれはわたしが御挨拶に云ったのだよ。檀那はなんとも思ってはお出《いで》なさらないよ」こう云って、お玉は箸を取った。
 けさ御膳を食べている主人の顔を梅が見ると、めったに機嫌を悪くせぬ性分ではあるが、特別に嬉しそうに見える。さっき「何をあやまるのだい」と云って笑った時から、ほんのりと赤く※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》った頬のあたりをまだ微笑《ほほえみ》の影が去らずにいる。なぜだろうかと云う問題が梅の頭にも生ぜずには済まなかったが、飽くまで単純な梅の頭にはそれが根を卸しもしない。只好い気持が伝染して、自分も好い気特になっただけである。
 お玉はじっと梅の顔を見て、機嫌の好い顔を一層機嫌を好くして云った。「あの、お前お内へ往《い》きたかなくって」
 梅は怪訝《かいが》の目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。まだ明治十何年と云う頃には江戸の町家の習慣律が惰力を持っていたので、市中から市中へ奉公に上がっていても、藪入《やぶいり》の日の外には容易に内へは帰られぬことに極まっていた。
「あの今晩は檀那様がいらっしゃらないだろうと思うから、お前内へ往って泊って来たけりゃあ泊って来ても好いよ」お玉は重ねてこう云った。
「あの本当でございますの」梅は疑って問い返したのでは無い。過分の恩恵だと感じて、この詞《ことば》を発したのである。
「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]なんぞ言うものかね。わたしはそんな罪な事をして、お前をからかったり何かしやしないわ。御飯の跡は片附けなくっても好いから、すぐに往っても好いよ。そしてきょうはゆっくり遊んで、晩には泊ってお出。その代りあしたは早く帰るのだよ」
「はい」と云ってお梅は嬉しさに顔を真っ赤にしている。そして父が車夫をしているので、車の二三台並べてある入口の土間や、箪笥《たんす》と箱火鉢との間に、やっと座布団が一枚|布《し》かれる様になっていて、そこに為事《しごと》に出ない間は父親が据わってお
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