フ変化が末造には分からない。魅せられるような感じはそこから生れるのである。
 お玉はしゃがんで金盥《かなだらい》を引き寄せながら云った。「あなた一寸《ちょっと》あちらへ向いていて下さいましな」
「なぜ」と云いつつ、末造は金天狗《きんてんぐ》に火を附けた。
「だって顔を洗わなくちゃ」
「好いじゃないか。さっさと洗え」
「だって見ていらっしゃっちゃ、洗えませんわ」
「むずかしいなあ。これで好いか」末造は烟《けぶり》を吹きつつ縁側に背中を向けた。そして心中になんと云うあどけない奴だろうと思った。
 お玉は肌も脱がずに、只|領《えり》だけくつろげて、忙がしげに顔を洗う。いつもより余程手を抜いてはいるが、化粧の秘密を藉《か》りて、庇《きず》を蔽《おお》い美を粧《よそお》うと云う弱点も無いので、別に見られていて困ることは無い。
 末造は最初背中を向けていたが、暫くするとお玉の方へ向き直った。顔を洗う間末造に背中を向けていたお玉はこれを知らずにいたが、洗ってしまって鏡台を引き寄せると、それに末造の紙巻を銜えた顔がうつった。
「あら、ひどい方ね」とお玉は云ったが、そのまま髪を撫《な》で附けている。くつろげた領の下に項《うなじ》から背へ掛けて三角形に見える白い肌、手を高く挙げているので、肘の上二三寸の所まで見えるふっくりした臂《ひじ》が、末造のためにはいつまでも厭《あ》きない見ものである。そこで自分が黙って待っていたら、お玉が無理に急ぐかも知れぬと思って、わざと気楽げにゆっくりした調子で話し出した。
「おい急ぐには及ばないよ。何も用があってこんなに早く出掛けて来たのではないのだ。実はこないだお前に聞かれて、今晩あたり来るように云って置いたが、ちょいと千葉へ往かなくてはならない事になったのだ。話が旨く運べば、あすのうちに帰って来られるのだが、どうかするとあさってになるかも知れない」
 櫛をふいていたお玉は「あら」と云って振り返った。顔に不安らしい表情が見えた。
「おとなしくして待っているのだよ」と、笑談《じょうだん》らしく云って、末造は巻烟草入《まきたばこいれ》をしまった。そしてついと立って戸口へ出た。
「まあお茶も上げないうちに」と云いさして、投げるように櫛を櫛箱に入れたお玉が、見送りに起《た》って出た時には、末造はもう格子戸を開けていた。
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