ツ年に床に入《い》ってから寐附かずにいるな、目が醒めてから起きずにいるなと戒める。少壮な身を暖い衾《ふすま》の裡《うち》に置けば、毒草の花を火の中に咲かせたような写象が萌《きざ》すからである。お玉の想像もこんな時には随分|放恣《ほうし》になって来ることがある。そう云う時には目に一種の光が生じて、酒に酔ったように瞼《まぶた》から頬に掛け紅《くれない》が漲《みなぎ》るのである。
 前晩《ぜんばん》に空が晴れ渡って、星がきらめいて、暁に霜の置いた或る日の事であった。お玉はだいぶ久しく布団の中で、近頃覚えた不精《ぶしょう》をしていて、梅が疾《と》っくに雨戸を繰り開けた表の窓から、朝日のさし入るのを見て、やっと起きた。そして細帯一つでねんねこ半纏《はんてん》を羽織って、縁側に出て楊枝《ようじ》を使っていた。すると格子戸をがらりと開ける音がする。「いらっしゃいまし」と愛想好く云う梅の声がする。そのまま上がって来る足音がする。
「やあ。寐坊だなあ」こう云って箱火鉢の前に据わったのは末造である。
「おや。御免なさいましよ。大そうお早いじゃございませんか」銜《くわ》えていた楊枝を急いで出して、唾《つばき》をバケツの中に吐いてこう云ったお玉の、少しのぼせたような笑顔が、末造の目にはこれまでになく美しく見えた。一体お玉は無縁坂に越して来てから、一日一日と美しくなるばかりである。最初は娘らしい可哀さが気に入っていたのだが、この頃はそれが一種の人を魅するような態度に変じて来た。末造はこの変化を見て、お玉に情愛が分かって来たのだ、自分が分からせて遣ったのだと思って、得意になっている。しかしこれは何事をも鋭く看破する末造の目が、笑止にも愛する女の精神状態を錯《あやま》り認めているのである。お玉は最初主人大事に奉公をする女であったのが、急劇な身の上の変化のために、煩悶《はんもん》して見たり省察《せいさつ》して見たりした挙句、横着と云っても好《い》いような自覚に到達して、世間の女が多くの男に触れた後《のち》に纔《わず》かに贏《か》ち得る冷静な心と同じような心になった。この心に翻弄《ほんろう》せられるのを、末造は愉快な刺戟《しげき》として感ずるのである。それにお玉は横着になると共に、次第に少しずつじだらくになる。末造はこのじだらくに情慾を煽《あお》られて、一層お玉に引き附けられるように感ずる。この一切
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